冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

全てのハッピーの中心

空虚。蒙昧。
頭の中に浮かぶ文字はどこかかっこつけた画数の多い漢字ばかりで、
夜中の静まり返った住宅街を適当に歩き続ける俺に晩冬の風は全く優しくない。
風に触れることができたならどうするだろう?
あるときは親しげに肩を組み、あるときは鼻っ柱をぶん殴り、
あるときは恋人のように手をつなぎ、あるときは泣きながら抱きしめる、と、思う。 

ところで、全てのハッピーの中心に君はいる。 

君が望むと望まざるとに関わらず君はそこにいる。
君の気分が世界の行く末に影響を与えることはないし、
君が誰にも知られないまま孤独に傷付く必要もない。
ただ君がいるだけでそこは全てのハッピーの中心になるし、
君がそれに耐えかねて逃れた先にまた全てのハッピーの中心ができる。
だから君は悲しい。
だから君はいつまでも悲しい。
どこまでもどこまでも君は放浪しなくちゃいけない。
本当はそんなことをする義理なんて君にはないのに、
君は普通の女の子よりちょっとだけ自己犠牲に抵抗のない良い子だから、
幸福の不平等を嫌ってどこまでも移ろおうとしてしまう。 

君はとても美しい。
モナリザとかミロのヴィーナスとか、実際に見たことはないけど、
多分そういう馬鹿みたいに長い時間を超えて美しいとされているものよりも君は美しい。
だからってわけじゃないけど俺は君のことが大好きで、そして幸いにも君も俺のことが大好きで、
でもずっと一緒には居られない。 

なぜなら君は全てのハッピーの中心にいる。
君は幸福の不平等を悲しんでしまう。 

君といつまでも一緒に居たいとそりゃもちろん思うんだけど、
それは俺ばかりがいつまでも無条件に幸福を享受するってことだし、
君はそれを気に病むし、
君が気に病む姿は俺を苛むし、
だから俺は俺で旅をしようと思った。 

本当に愛し合うものだけがいつまでも引き合うんだ。
それは運命なんかじゃなくて呪縛みたいなもんで、
俺はそれを信じることによってその呪いを最大限に強めようと思った。 

君は泣かなかった。とてもえらいと思う。 

本当のところ、愛し合うものがいつまでも二人で過ごして幸福であることの何が、
何が悪いんだってやっぱり悔しいし、だから今でも一人で泣きそうになりながら暴れる夜がある。
大抵そういう時は寒さをやり過ごすために強い酒を飲んでいて、次の朝には後悔している。
こんな惨めな俺があんなに美しい君と一緒にはなれないんじゃないかって、
そう考えるとまたとてもとてもとても哀しくて寂しくて、
どれだけ太陽が温かい日差しをこっちに向けていても寒気が止まらなくなって、
だからまたたくさんたくさんアルコールを身体にぶちこんでしまう。 

いつかまたすれ違って言葉を交わすことができれば、体温を感じることができれば、
そのために俺はこうやってあてどなく彷徨っている。
ここがどこなのかもわからないまま歩き続けて、考えるのは君のことばかりだ。
君は何を考えて、今はどこを歩いているだろう?
今にも倒れ込みそうな俺に初春の風は全く容赦なく吹き付ける。
もしも風と言葉が交わせたら、俺は何を話すだろう? 

やっぱり俺は君のことを話すと思う。
君がどれだけ美しかったか。
君がどれだけ尊かったか。
君がどれだけ悲しかったか。
君と一緒に過ごせた時間がどれほど、どれほど幸せだったか。
そして最後には風に言伝をお願いをするだろう。
どんな言葉を預けたかはもちろん、君以外の誰にも秘密だ。 

大丈夫、風が君を見つけられないんじゃないかなんて心配は全くしていない。
誰だって君のことはひと目見たらわかる。
だって全てのハッピーの中心に君はいるんだ。 

そう、全てのハッピーの中心に君はいる。
だから俺は実は適当に歩いているわけじゃない。
幸福というものの放つあの淡い香りを確実に嗅ぎ分けて、手繰り寄せて、進んでいる。
ルール違反かもしれないけれど、これくらいは許してほしい。
空虚。蒙昧。
そんな文字で頭をいっぱいにするくらいには俺は焦がれてしまっている。 

ああ、本当に俺は君に会いたいよ。 

そう、全てのハッピーの中心に君はいる。 

もうすぐ俺もそこに行く。

僕はリボンキャミソールを知らなかった

 

女の子の買い物に付き合うのが好きだ。
服でもアクセサリーでも化粧品でもなんだっていいけど普段見れないものが見れて楽しい。ふわふわしてるものとかきらきらしてるものとかがやたらめったら視界に入ってくるあの感じが結構好きで、恋人とか女友達が「ちょっと寄っていい?」って聞いてくれるのを待ってるところすらある。フェミニズムがなんたらジェンダーがどうたらの難しい話は避けたいけれど、やっぱりああいうふわふわきらきらなものや場所は女性に向けたものが多いし、男は一人だろうが複数だろうがなかなかそういうものにお目にかかれない。自分自身かわいいものが好きだということもあるにせよそれを抜きにしたってあの非日常感は素敵なものだと思う。そういうこともあって女の子と出かけるのは楽しい。やっぱり同性とのそれとは質が全く違う。だから何が言いたいかってゴールは全くないのでこの話題は打ち切ろう。
と思ったけど続けよう。思い出したことがある。リボンキャミソールの存在をこの春に知って感心したこと。服屋のハンガーにぶら下がってるあの中途半端なサイズのぺらぺらが何なのか初めは全くわからなくて凝視してもやっぱりわからなくて同行者に質問しても全然わからなくてスマホで画像を見せてもらってようやく得心がいってそうすると不思議なことに街中でリボンキャミソールを着ている女性がやたらと目につく。肩こりという言葉を教えてもらったばっかりにそれに苛まれるようになってしまった外国人の話をなにかで読んだことがある。それと同じ類の現象なんだろう。語彙は景色を変える。花の名前をひとつ覚えるたびに街を歩く一歩が美しくなるし、罵詈雑言をインストールすれば暴力が少し手に入る。世界は言葉でできている。ひとりぼっちになるということはだから多分誰からも名前を呼ばれなくなることなんだろうと思う。寂しさというのは名前を呼ばれなくなることで、切なさというのは名前を呼べなくなることだ。あらゆる喪われたものには名前があって、名前がないものを僕たちは喪うことができない。と、まで言うと大袈裟だろうか?とにかく僕はあなたの名前を呼ぶことのできる幸運を喜ぼう。気が向いたら僕の名前も呼んでくれ。恋というものは結局それに尽きる。二十七歳かく語りき。おっさんだってロマンチシズム。
あんまり自分のことをおっさんだなんだと自虐するのはそれこそ言葉の力に侵されてしまう気がするので匙加減が難しいところだ。ある程度は年齢を弁えたいと思う反面、あからさまに抵抗をやめるのもつまらないと感じる。そもそもこういう葛藤が内に生まれていることそのものが月日の経ったのを思わせる要因になっている。もう、ほんとに、百代の過客~。ちょっと過客~。って感じ。どうせ永遠には勝てないしそもそも勝ちたいとも思わないしまあこんな感じでよいのだろう。考えるのが面倒くさくなってしまった。そんな風に思ってしまう人間にはやっぱり永遠は必要ないだろう。不老も不死も持て余す気がしてならない。必要なひとに必要なものを。僕の分の永遠はどこかの誰かがもらってくれればいい。
僕の知らないふわふわしたものやきらきらした場所はまだまだたくさんあって、そこには当然リボンキャミソールみたいになかなか飲み込めないわからなさもあふれてるんだろうけど、そういう好奇心のために永遠を欲しがらない程度には僕も大人になれました。だから何が言いたいかってゴールは今度こそ見当たらなくなったのでこの文章は打ち切ろう。

 

携帯電話が死んでいる

 

タイトルの通りだ。携帯電話が死んでいる。春頃から死んだり生き返ったり。今回の死は今までで一番長い。もうそろそろ一ヶ月になろうかというところか。とはいえ蘇生の幸運は当分訪れそうもなく、このまましばらくはカメラとメモ帳を兼ねた無駄に高価な機械として携帯することになる見通しだ。もしかしたらずっと。とにもかくにも金がない。おもしろきこともなき世をおもしろく。ついでに三千世界の鴉を殺して、けれど朝寝の相手が居ない。
携帯電話が死ぬようになってから、正確に言うと死んだり生き返ったりするようになってからよくわかったんだけど、いまの生活をしている限り携帯電話がどうしても必要になることというのはそれほどない。自宅にWi-Fiが飛んでいるからというのもあるけど、それにしても外に出た時に通信ができなくて不自由を感じることもほとんどない。少なくとも自分は。とはいえ俺と落ち合おうとする相手は大変だろう。2017年にもなって一発勝負の待ち合わせをしなければいけないのだから。家を出る直前に到着予想時刻と待ち合わせ場所を連絡してそこに向かって会えるか会えないか。俺は大層楽しんでいるけれど、みんなには申し訳なく思わないではない。

電波が届く範囲ならどこに居たってコミュニケーション可能な現代で電波を全く受信できない状態に陥っているというのは思ったよりも自由だ。自由には責任とかなんか難しいものもたくさんくっついてくるらしいけどまあとにかく自由だ。こちらの状況を知っている相手は俺に連絡がつかないとしても諦めるしか仕方ないわけで、つまり俺が外に出ているあいだは基本的に誰も俺を捕まえられない。賢人面した老人が山の奥の更に奥の別荘に引っ込んだり何かに理由を付けてインターネットを拒んだりしているって話がたまに耳や目に入る度にははあ大層自己プロデュースがお上手ですね流石流石と小馬鹿にしていたけれどいざ自分がインターネットから切り離されるようになってよくわかった。これ楽だわ。なるほど現代の病。病のおかげで貧困になって貧困のおかげで病から開放されて、ならついでに病のおかげで病が治ってぐるぐる回ってくれればいいんだけどね。いやぐるぐる回っちゃダメか。
インターネットというものに触れたのが確か10歳の頃だからかれこれ17年、携帯電話を買い与えられたのが高校受験直前だからもうそろそろ12年、まあだいたい多感な思春期からこっち人生の半分を何かしらのかたちでインターネットと共に過ごしてきたわけで、そりゃ全く何の通信も不可能な状況に新鮮味も感じるかと納得する。甥っ子は今年で小学二年生なんだけどそれはつまり生まれたときからスマートフォンが手元にあった世代ということで、彼がいまの自分の歳になる頃が楽しみだなと月並みなことを思う。文化や文明や個人を取り巻く環境は間違いなく人格に影響を与える。願わくばあの子のこれからに幸多からんことを。けれどとりあえず俺の状況が少しはマシにならんことを。あいつに本の一冊でも買ってやりたいし。という風に善良な人格を有していることをさり気なく見せる自己紹介。

とにかく文章の感じからわかるかもしれないけれど僕は今日は既にまあまあな飲酒をしている。携帯がなくても日々を生きていけるのと同じくらいには酒がなくても夜をやりすごせるんだろうけれど、まあ少なくとも酒は携帯より歴史が長いし、人間の暮らしにそれなりに馴染みがあるもんだから目を瞑ってもいいと思う。

って感じでこんな風にいつだって大人は適当なことを言う。友人の言葉が頭の中を巡り巡る。

「わかっとると思うけど真実はいつもひとつやで」

ほんまやで。

 

骨と暇

 

特に何か用事があるわけではないけれどなんとなく外に出ようと思った。シャワーを浴びてそれなりに身支度をしたけれど結局なんとなくやめた。例えば整髪剤を使った髪型とか既に汗を吸い込んだ柄シャツとか財布や扇子を放り込んだボディバッグだったり肌に残る制汗スプレーの細かいパウダーもそうだ。一度芽生えた意志の残滓はそういうかたちで五感のどこかに名残をとどめるし、当然脳の隙間にも少しだけ塵が零れる。生まれては死んだ意志の数々。行かなかった旅先、伝えなかった恋心、食べなかったメニュー、残さなかったメロディー、読まなかった本、エトセトラ、思いつく限り、忘れてしまったもの、かたちを伴ったもの、伴わなかったもの。ほとんどが弔われることなく塵となって積もっていく。それは人格の形成や人生の風景に影響を与えるだろうか?目の前に渾然と積み上がった無数の意志の白骨死体。白骨死体。意志の骨というのはどこにあるのだろう。だとすれば何が肉に当たる?巡る血は?

結局、暇なのだ。だからどこからでも死を見出そうとする。今の俺はまるで死に取り憑かれているようで如何にも病的だ。病人として静養していることを考えるとある意味全く正しい姿だろうか。と、そうして自嘲をしているうちに今日も日が暮れた。少しだけ過ごしやすくなった部屋の中で雨の予感を感じながら文字を打つ。まだまだこの小さな画面で文字を連ねることに慣れない。予報通りなら日が変わる頃に雨が降る。それまでにやっぱり散歩でもしてこようか、どうしようか。

集団の死は統計上の数字に過ぎないと言ったのは誰だったか。意志が死ぬことについても同じように言えるだろう。人間は日々意志の大量虐殺を平然と行っている。そういう風に生まれついている。ひとつひとつを哀しみ弔うには死ぬ数が多過ぎる。もちろんそれは生まれる数の多さも意味している。人間は己の内奥で神のように振る舞い、次々と新しい意志を生み出す。だとすればやはりそのひとつひとつを喜び寿ぐことも出来ないだろう。生まれた数と死んだ数。どちらが多いのか、多かったのか、多くなっていくのか。イザナミイザナギ。神話には詳しくない。名前だけが浮かんだ。

己の脳の隙間、あるいは精神の谷底で無数の骨が積み上がっているとして、それが人格の形成や人生の風景に与えた影響は全て過去のものだ。骨が骨に触れたその時、暗い影に音が響いた。我々は無意識のうちにそれに耳を傾けた。その音の澄み切った色彩や鈍く残る不愉快は既に鳴り終えている。雷光と雷鳴。詭弁?結構。

結局のところ世界というのはどんなかたちをとっているにしろ生きている者たちのものだ。死はある。それが与える影響も否定しない。けれども受け取るのは生きている者だ。開き直ることについてすら開き直れるのは生きているからだ。死者は沈黙する。ゆえに神格と化す。ファック・オフだ。過去はさぞかし美しいことだろう。果たせなかった夢、伝えられなかった想い、全ては適宜最適な彩色で美化される。何故ならそれらは全て死んでいるし、死化粧を施すのは生者だからだ。死者はそれに抵抗できない。そう考えて憧憬する自分が居る。これ以上の抵抗は無意味か?

どうしようもなく暇なのだ。そういう風に生まれついてしまった。かれこれ十年は同じことばかり考えては言葉にしている。結局未だに一歩足りとも進めていないように感じるけれど、だから今でも過去にならずに眼前に在るのだろう。この遊び相手は当分美しくなってくれそうにない。だけどそういうものがひとつくらい側になければ張り合いがない。それこそ自分を過去にしたくなる程度には。とはいえそろそろ新しい暇潰しの相手も欲しい。やっぱり散歩に出かけようか。雨まではまだもう少し時間がある。

何しろ暇なのだ。どうしようもない。

 

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生温い夏の夜

 

まずはBill Evans TrioのWaltz for Debby、次にAldo Ciccoliniの手に依るErik SatieのGymnopédies 第1番、Glenn GouldKeith Jarrettを経てrei harakami のLiveでグラスの中のFour Rosesを飲み干し、ヘッドホンを外すと真暗の部屋に扇風機の静かな騒音。如何にも通俗な選曲。生温い夏の夜。少なくとも今夜は人の声を聞きたくない。

こんな風に俺は時々本当にどうしようもなく人間と相対することができなくなる。自分以外の人格に直接触れたくない。けれども心の底から人間を求める性質が骨の髄まで染み込んだ自我はそれを完遂することができない。そして人間が生み出した美しい上澄みだけを掬いとって味わおうとする。贅沢な折衷案だという自覚はある。だからバーボンはグラスにロックで一杯だけ。泥酔はしない。酩酊も避ける。ただその美味を味わうためだけの一杯。バーボンはね、値段の割に美味しいものが多いんだ。今の俺みたいな貧乏人にはちょうどいい。

土曜に観たユトリロはとても良かった。可愛い聖体拝受者。特別に特別さを強調されていただけあって本当に抗い難く美しい一枚。並ぶ絵の中を一周し、二周し、疲労を感じ、同行してくれた昔の恋人に軽く促されて帰路に就きかけるも、やっぱりどうしてもこの絵からは離れたくない。結局二十分か三十分か、とにかく長い時間をあっという間にずっと観ていた。帰り際、見兼ねた彼女が絵葉書を買ってくれた。光沢を伴ってしまったそれは当然だけど本来の魅力が損なわれていて、それでも本来の魅力を想起させるのに充分なきっかけとして働いてくれる。それくらいに俺は本物の本当に触れることができたはずだ。いつか縁があればまた観られるだろうそれを想像する。今度は一時間でも二時間でも。ユトリロ。白の時代。可愛い聖体拝受者。淡い水色と美しい白だけで世界を閉じ込めた一枚。

何にどう触れたとしてもいつも思うことだ。

俺は芸術を解せない。ただ敬意を払うだけ。

絵でも音でも小説でも落語でも何でもいい。本当になんでも。経済活動でも学術研究だっていいんだ。とにかくありとあらゆる研ぎ澄まされてそこに在る様々を、俺は俺の中で解体して咀嚼して昇華することがどうしてもできない。俺はただ敬意を払うことしかできない。なのにそれを表すための金銭もなければ語彙もない。本当のろくでなしだ。そしてそれを確認した俺はまたしても生きるために必要なものを考えようとしてしまう。吊られたロープ、マンションの10階、単純な刃物、躁転、それの志向するものの方向と増幅の制御。やっぱり双極性障害は厄介な病気だ。楽しくて仕方がない。それはそれとしてそろそろ一つ言っておきたいんだけど、iPhoneでまとまった文字数を書くのはこれで三度目のはずで、やっぱり面倒臭いし書きにくい。誰か文章を書くためだけの安いノートPCなんかがあったらくれよ。ダメか?酒も飲ませてほしい。Maker's Mark。電氣ブラン。それだけじゃない。俺は遠出を欲している。金の工面さえしてくれれば俺は大体どこにでも行ってあなたの好意に甘えて飯と酒を楽しむだろう。俺の代わりに俺で浪費してくれ。気が向いたら俺に性的逸脱をさせてくれ。せっかくの躁転が勿体無い。こんな風に人を拒絶したり挑発したりするしかない不機嫌が増幅された躁転は不愉快でしかない。誰か俺を助けてくれ。それが素直な気持ちなんだけど、この病気に於いて「素直な」という形容詞の持つ意味合いはどこまで変容してしまっているんだろうか。まだわからない。俺は別にそれがわからなくてもいい。十中八九躁に入った脳はそう判断する。殴りすぎた内腿が青く内出血を起こしている。

少なくとも俺は社会的に死んでいる。おかげでいま肉体も精神も自覚的に閉じ込めることができる。その状態を素直に受け止めることは複雑な感情を渦巻かせるけど、不用意に人を傷付けることがないと考えれば幸運なことなんだろう。「ポジティブ・シンキング」とやらが人間には必要なんだ。前向きに前向きに。どうせ前に進めば進むほど死に近付くのは間違いないんだけど、後ろに下がるとあっけなくすぐに死ぬだけだし、それはまあ、つまらないんじゃないかしら。

こんな時間になっても未だ夜は夏で生温い。バーボンはね、本当に、値段の割に美味しいものが多い。扇風機だけが命を繋ぐ静かで耳障りな夜、マイスリーロヒプノールに導かれて睡眠にまさにいま落ちようとしているところ。

僕は本当にみんなが大好きだし、その中でもやっぱり特別に扱いたい関係というものもあるし、だから心が揺れてしまうこともあるね。

これから僕は少しのあいだそういうところから離れて日々を過ごしたい。ゆるしてほしい。

おやすみなさい。さようなら。

 

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また明日

 

暗闇の中で低く呻きながら俺はまた自分を見つけた。手探りでiPhoneを引き寄せる。俺は自分の手の届く範囲の内側にそれがあることを知っている。大丈夫だ。確かに記憶は連続している。それをデバイスの有無と位置でとりあえず確認する。連続の強度まで確かめる必要はない。どうせまたすぐに断続に飛び込む。直線に突き刺さる光に目を細める。これは生物として正しい反応のはずだ。現在時刻を把握する。これは人間としての所作。そのまま液晶の灯りで机を照らして錠剤を手のひらに乗せる。部屋にあったペットボトルの水。確かこの今日のどこかで部屋に持ち込んだもの。ぬるくなっているがどうでもいい。それを飲み下して再び横になる。iPhoneと指先でこの文章を書く。フリック入力。薬が効いてくる。眠気が強くなる。俺はこの文章だけは書き終えようと抵抗する。眠気が強くなる。俺は自分が選んだ断続に飛び込むことを拒んでいる。眠気が強くなる。また明日が来る。明日の定義に興味はない。三文芝居の台詞のような言葉遊びはどうでもいい。寝て、置きて、外が明るければ俺は明日に居る。まだ暗ければ今日だ。だから俺はまだ今日に居る。眠気が強くなる。きっと明日が来る。今に明日は来る。また明日が来る。俺は知っている。俺は眠気に抗えなくなっている。俺は俺の文章に満足していない。しかし俺はこの辺りで文章を終わらせてもいいかなと思い始めている。まだ眠気が強くなる。こうして今日の俺はまた惰性に身を任せる。性懲りもなくとりあえずで終わろうとする。きっとまた低く呻きながら俺は自分を見つける。何度でも。いつか突然終わるまで何度でも。眠気を強める。断続に飛び込む。多分それは群青色だと想像する。理由は特にない。その方が俺の気分が良い。俺は眠りに抗うことをやめる。俺は群青に潜って、一度途切れて、また浮かび上がる。断続。連続。おやすみ。おはよう。青と青のあいだでゆらりゆら。

また明日。

 

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立方体と逆U字

 

死が近い。時間ではなく距離の話だ。

俺は自分の人生を楽しいと思っているし自分のことが大好きだけど俺自身は必要ないんじゃないかという考えが延々と頭蓋の中で反響している。

これは病気の産物だとちゃんと知っているけれど、こうも繰り返されるとそれ自体にうんざりして誘惑に負けそうになる。

GWが明けて暫くはむしろ精神は穏やかに向かっていた。

壊れたレコードみたいな他人事の希死念慮をずっと聴かされるようになってまだそれほど経っていないと思う。

裏を返せば毎日ではなくてもたった一ヶ月程それが起き得る状態になるだけで「誘惑」と感じるほどには判断力が低下するということだ。

 

死を遠ざける必要が生まれている。

けれども、と思う。

そもそも人間はいつだって死を遠ざけようとしてきた生き物だったのではなかったか。

自殺はだからこそ人の歴史の中でも未だに特別な死の形式としてあるのではなかったか。

死を遠ざける必要が生まれている。

それは実は誰にでも常に生まれている。

それに気付かずに居られる状況を創り出した人間の強欲を思う。

俺はそれに気付いたことを幸運だとは思わないが、味わう他はないとも思う。

 

広場の隅、あれは一応椅子なのだろうか、石で出来た立方体に老人が座って煙草を吸っていた。彼は少し長めの白髪を無造作にオールバックにして、少しだらしなく、しかし品格を保ったままワイシャツとスラックスを着こなしていた。脚を開いて背中を丸めて心底気怠そうに、どこまでもつまらなさそうに煙を吐く。ただ視線だけは落とさずに、おそらくは城か、その上の空か、でなければその白と青の対比か、そんなものを眺めているようだった。その表情は景色を楽しんでいるようにはとても見えない険しさで、けれどもずっと一点を見つめたままゆっくりと煙草を燻らせていた。

 

高架の下、逆U字の車止めを股の間に挟む形で腰を下ろした初老の男が煙草を吸っていた。結論から言うと彼はホームレスのように見えた。ぼさぼさの頭の下にはどこにも清潔感を見出せないようなぼろぼろの服を纏っていて、肌はやたらと日に焼けていた。横断歩道の中継地に少し離れた柱の隣、そこの車止めに跨って足をぶらつかせながら、楽しそうに人の行き来を見ている。見られている人たちは誰も彼のことに気付いていない振りをして歩いていく。彼は時折顔を上げて、どこも変わったところのない灰色の高架を見ながら殊更に昇らせるように煙を吐く。電車の走る容赦のない轟音が響く。顔を下ろしてまた楽しそうに横断歩道を渡る人を見る。そのにこやかな男は思い出したように右へ左へ視線を移してはぼんやりとたくさんの人を眺めて立て続けに煙草を吸っていた。

 

死を遠ざける必要がある。

俺はそれを断言することはまだできないけれど、世界は美しい可能性があると、そう思う。

 

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一面の白の日

 

大寒波、らしい。


昔から冬は苦手だ。
よく言われる「張り詰めた静けさ」という感覚はとてもわかるしそれは好きだけど、どうしても冬は心身の調子が悪くなる。
謎の長時間睡眠が頻発するのもこの時期で、一月に入ってからもう三回ほど時間を飛び越えている。
「冬季うつ」なんて言葉もあるくらいだし、寒さはそれ自体があまり心の働きに良くないのかもしれない。
とはいえ友人の一人は夏が来る度に調子が狂って冬になると落ち着くらしいのでやっぱり人それぞれなのだろう。 


日記というのはやはり、ある程度の情報量の中を生きていない人間には難しいものだ。
クリスマスからお正月までは情報量の嵐だったが、それを過ぎた今は特筆すべきことのない暮らしを送っている。
生身に浴びる情報がないと人間はどうしても現実から遊離していくらしい。

 
多分十年以上前の、同じように大寒波が襲った年。
その時の僕は確か中学三年生だった。
二学期の終業式の日だったと思う。
一面の白の日。 


高校受験に対して余裕の風を吹かしていた生意気な僕は同様の友人二人とグラウンドに積もった雪で盛大に遊んでいた。
雪に飛び込んだり、雪玉を投げ合ったり、雪だるまをつくったり、それを壊したり。
白い息を吐きながら部活動に精を出す後輩たちを横目に好き放題やった。
先生に叱られても無視をして遊び続け、遊び疲れたという理由でようやく解散。
多分その帰り道だったと思うんだけど、ここからの記憶があやふやだ。 


校門を出てすぐのところで小学五、六年生くらいの男の子二人が雪玉を転がしていた。
振り返るにテンションがおかしくなっていたのだろう、僕から話しかけたのは間違いない。
意気投合した僕と彼らはなにが楽しいのかゲラゲラ笑いながら街中を雪玉を転がしながら歩いた。
すると途中で気の良さそうなおばさんが話しかけてきた。
おそらくあのおばさんも珍しい大雪にテンションがおかしくなっていたのだろう。
僕らと一緒に雪玉を転がし始めた。
そうして謎の四人組は雪玉を転がしながら街中をうろつき、それはそれは立派な雪だるまをつくった。
あのときまだケータイを持っていなかったことが悔やまれる。
大きさはそれほどのものではなかったが、頭と身体の見事なバランス、その凛とした佇まい、どことなく漂う愛嬌。
それはおよそ雪だるまが雪だるまとして成立するための全ての要素を見事に調和させたものだった。
もちろん四人はその出来に大いに満足し、それぞれにそれぞれを称えた。

 
この記憶が果たして真実のものなのかどうかが今ひとつ自分でもわからない。
十中八九は本当にあった出来事なんだろうけど、あまりにファンシー過ぎる経験に対して自信が持てない。
僕は一面の白を見るたびにこのあやふやな記憶を思い出す。
生身で浴びたはずの情報ですら現実から遊離している。 


大寒波、らしい。
外に出てみると薄っすらと雪が積もっていた。

 

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偽りの記憶と打ち消すための瞬間

写真を撮るようになった。
Instagramというものを始めて(特に理由はない)、始めたからには何かしらの写真があったほうがよかろう、という理由と、Photoshop(もっぱらiPhoneのアプリ)で写真を雑に加工するのが楽しくなった、という理由がある。
それらより大きい理由として、昔の写真を見返す、という行為に思ったより感じるものがあったことが挙げられる。
おそらく歳を取ったのだろう。
2017年、今年で27歳。
こんなはずじゃなかったと言っても仕方がないので生きていこう。

写真や文章が呼び覚ます記憶というのは案外馬鹿にできないもので、普段の自分は軽度の記憶障害かと言うくらいに昔のことや想い出が曖昧にしか出てこないため、たまに何かに媒介されて記憶が蘇ったときはいちいち鮮烈な刺激に晒されることになる。
正確に言うと出来事の輪郭なら多少は思い出すことができるのだが、写真や文章に触れると、「出来事のディテール」とそれに伴った濁流のような「実感」が襲ってくる。
ああ、俺はかつて確かにそこに在った、と。
そんなことを馬鹿みたいに毎回繰り返している。

文章は自身の内面に深く深く潜り込んでいくことなので、それに触れて蘇る手触りは内臓の粘膜を思い起こさせるものだが、写真は誰かとの関係を鮮やかに切り取るものが多いので、揺れ動かされた感情は大抵パステルに明るく観測される。
わざわざややこしい言い回しをした。
文章はどちらかというと辛いときに書くことが多かったので、このときしんどかったんだなーと思うし、写真は楽しかったときに撮ることが多いので、よい人生を歩ませてもらったなあと思う。

写真を撮るようになったのはここ半年の話で、それは多分「思っていたよりも楽しい日々」を可能な限り記録しておきたいという欲望だろう。
なんだかんだ言っても振り返ってみると起伏の大きかった、いわゆる一般的ではない人生を歩んできた割には楽しかったな、と思う。
写真の一枚一枚がそれを補強してくれている。
文章なんていくらでも書くから心配する必要はないけど、写真は撮る習慣が全くなかった(むしろ積極的に避けていた)ので、これからは、と。

2017年1月現在、26年と半年ほど生きてきた中で2位に大差をつけて堂々の1番で苦しい状況だ。
ちょっと冗談抜きで笑えない状況で、どれくらいかと言うと福祉の最後の砦が視野に入りつつある。
そんな絶対的貧困のなかをそれでも笑えていられるのはこれは間違いなく親しい人々のおかげで、この年末年始はそのどうしようもないありがたさをますます強めるものになった。
もう迷惑をかけてしまっている各位と、これから迷惑をかけてしまうかもしれない人々が、嘘でも「そんなことはどうでもいい」と言ってくれている。
おかげさまでギリギリ状態は最悪にならずに済んでいる。
状況はどこまで駄目になってもいいから、状態だけは一定の水準を保たなければいけない。
生き延びること、存命することが現在の自分が持っているただ一つの約束で、それだけは死守する。
死んでしまったら関係がない?死んでしまっても関係がある。理屈はない。けれどある。

先述の通り、文章にはこういう、自分がどういう状態だったかを記録する役割を与えている。
けれどこれだけでは「この最悪の状況を自分は意志の力で乗り切った」という嘘の記憶が定着してしまう可能性がある。
確かに状況は最悪で、友人たちのおかげで生き延びていることも間違いないけれど、その友人たちのおかげでこんなに楽しく日々を過ごして、結局笑顔が絶えることはなかった、ということ。
それも含めて嘘偽りなく残しておかなければ、不義理どころの話ではない。
俺は日々を喘いでいたわけではない。
糊口を凌ぐことで精一杯だったかもしれないけれど、幸福を手にすることも間違いなくできていた。
それらは全て友人たちのおかげだった。
嘘偽りなく未来に絶叫するために瞬間を出来る限り切り取っていく。

つまりはそれが一番の理由だ。

さして綺麗でもない夜景

 

今日は精神が完全に終わっていた。
こういうときはいつも考える。
この辛さは病気に由来するものなのか、それとも単に調子が悪いだけなのか。
この問いはいともたやすく自分を追い詰める。
「わたしのこころの弱さは病気が原因のものなのか、それとも単にわたしが弱いだけなのか」
辛さも弱さも結果だけを見て対処だけをすればよいのだろうけど、それができない。
それはこころが弱いからだろうか。
だとすると、そのこころの弱さはどちらに起因するものだろう?

自分のこころが弱いからだ、と断言できる想い出が蘇った。
今日というよりはつい先程。
それは若さと恋愛を主軸にして込み入ったよくある話で、もう完璧に想い出として彫刻された記憶だ。
だから結果だけを語ろう。できるだけ修飾して。
ままごとのような逃亡と、互いの傍らに居た友人。
さして綺麗でもない夜景を四人で見たこと。
「あの頃はまだ煙草を吸っていなかったはずだ」と思った。
夜景は特筆すべきことがないくらいには特別なものではなかった。
なのに本当に鮮やかに思い出すことができた。

記憶というものは積極的に捏造される。誰の手でもなく自分自身の手によって。
たとえばそれは今日の僕のような夢の中での捏造もそうだ。
それは昨晩かすかに感じた懐かしさを頼りにつくられた切なさだった。
そこには嘘みたいな密度の想い出が詰め込まれていた。
その手触りは間違いなく本物だった。
けれど、全てが捏造だった。
目覚めてから確かめた手触りは全て後悔を伴うものだったが、その心当たりを手繰ることに躊躇いはなかった。
そういえば、この辛さはどちらに起因するものだろう?

積極的な記憶の捏造のなかに人間は生きていて、それが夢と混ざり合った色彩のなかにだけ過去は存在する。
いつからかそんなことばかり考えるようになって、だからその枠組でしか生きられなくなっていた。
時計がただ秒針の音を鳴らし続けるだけの装置に思えて、だからデジタルの時計が使えない。
僕は過去が一定のリズムで色彩に加わっていくことを想像しながら眠りにつく。
それが今日のような捏造を生むとしても。生むからこそ。

「わたしが弱いだけなのか、病気が悪いせいなのか」
どちらにせよ答えが出ない問いであることは間違いない。
そして少なくともその答えを過去に求めたとき、記憶は積極的に捏造されるだろう。
その捏造は――善悪を問わないのならば――むしろ福音としてあるものだ。
あなたの過去が素晴らしく捏造されることを祈ろう。
できるだけ多くのあなたに祈ろう。