冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

騒音装置の犬に見る無限の寂しさ

 

近所に犬が居ます。
いわゆる(蔑称としての)馬鹿犬というやつで、それはもう笑えるくらい吠えます。
ていうか笑ってます。
どうしてもその吠え声をみなさんと共有したいので探しました。
見つけました。
吠え声の種類が非常に豊富でわかりやすいサイトです。
ここから引用させていただくこととします。
こういう引用には許可が必要だったでしょうか?

もしそうなら教えていただけると幸いです。


子犬のへや

www.koinuno-heya.com



閑話休題
騒音装置と化している犬に思うところは近隣各位絶対にあるはずですが、おそらくはご近所付き合いというやつでしょう。
下手に古くから形成されているコミュニティなものだから誰も何も言えないのだと思われます。
我が家は弾き語りをガンガンやっているので騒音問題に文句を言う権利がないし、基本的にはあまり気にしていません。
それでもあまりの吠え声に笑ってしまうことがあります。
そんな様子で同居人との話の種に吠え声を楽しむのんびりした暮らしを送っていました。
そこに変化が訪れたのがここ数日です。
諸事情により家から一歩も出ずに引きこもっていた間に、吠え声に対して強い怒りを抱くようになりました。
犬そのものに?
違います。そのご家庭そのものにです。

一例をあげると、その犬はこういう吠え声を延々と30分ほど続けます。

www.youtube.com



この吠え声は警戒音らしいですね。
それは大抵郵便配達や宅配があったときに始められて、本当に30分ほど続きます。
鳴き声の理由を知った僕は「どれだけ念入りな警戒だよ」と笑いました。

 


笑えなかったのが本題にして問題の次の吠え声です。

www.youtube.com



この犬、誇張じゃなくて朝5時から夜11時までずっとこの声で吠えっぱなしなんですよ。
おそらく寝ている時以外、実に18時間に及ぶ吠え声。
丸々数日間引きこもってその間ずっと吠え声を聞き続けてようやくその異様さに気付きました。
そして調べてみるとこの吠え声は寂しさを表している、と。
つまりこの犬は一日中寂しさを感じていて、しかもそれが毎日途切れることがない。
そういうわけですね。
感情移入です。みなさんはどうですか?

思い当たるところはありませんか?

では、何故その寂しさが形成されたのか。
これも端的に言えばしつけの問題なのでしょうが、その一言で済ませるのはあまりに淡白です。
不審にならない程度に自分で探れる範囲で何かわかることはないだろうか、と考えました。
あっけなく答えは見つかりました。

吠えっぱなし、と書きましたが、正確には時々吠え声が途切れることがあります。
僕は今までそれを散歩の時間だと思っていましたが、違いました。
もちろん散歩の時間という理由もあったのですが、それ以外の理由もあり、それがハッキリとわかりました。
犬やそのしつけに詳しい方ならとっくにわかっているのかもしれませんね。
その犬がその鳴き声を一定時間続ける度に、少しだけご家庭の方が相手をするんです。
数分だけ。たったの数分だけ、です。

調べてみた範囲ではこのやり方は最悪に近いようです。
(付け焼き刃なので間違っていたら申し訳無いです。)
おとなしくしていることで満たされることもなく、吠え続けることで満たされることもなく。
何をやっても満たされることがない状態に陥っているそうです。
感情移入ですね。みなさんはどうですか?

思い当たるところはありませんか?

寂しさを主張し続けてし続けて、疲れ果てた頃に気まぐれに寂しさを慰めてもらえて、だから寂しさを叫ぶことがやめられずに疲れ果てて。

自分でも他者でもいいですね。
思い当たるところはありませんか?
本当に?

真剣に向き合えないのに生命を預かろうとする姿勢に僕は本当に怒りを覚えました。
そのご家庭は老夫婦なのですが、老いが言い訳にはなりませんし、生命に対して無知は罪です。
僕は動物愛護には全く興味がありませんが、感情移入ですね。
怒りです。たとえばそれが人間だったとしても掃いて捨てるほどありますね。
怒りです。向き合えないならば軽々しくあるべきではないですね。そうでしょう?

古くて狭いコミュニティです。誰かがノイローゼで発狂でもしない限りあの犬が改めてしつけられることはないでしょう。
引っ越しの挨拶に際して「うるさくてごめんなさいね」とおっしゃた方々です、「犬はそういうもの」と思われているでしょう。
つまりあの犬は死ぬまで、つまり主観的には無限に、慰められない寂しさを主張し続けることになります。
生命はおもちゃなのでしょうか。あるいはおもちゃなのかもしれませんね。
思い当たるところはありませんか?

人間が騒音装置と化せないことは祝福なのか呪詛なのか。
思い当たるところがあったとして、人間は歯車が噛み合えばその寂しさを取り除くことができるみたいですよ。
慰めるか取り除くか、消極的でも積極的でも、あなたがそれを選択できることを祈っています。

 

生きるに値するか

 

「青い鳥」という映画がある。名作だ。

いじめによる自殺未遂で転校した生徒は、形式的な反省だけで忘れ去られようとする。
「忘れるなんて、卑怯だ」の言葉とともに、その生徒の不在にも関わらず毎朝挨拶をする教師がやってくる。
彼はそれ以外に特別なにか大きいことをするわけではない。
ただ、関わる全てのひとに本気で向き合い、会ったこともない生徒を忘れない/忘れさせないために挨拶を重ねる。
そういう話だ。名作だ。
ぼくは地元でニートをやっていたころにこの映画を見た。

情報量の問題なのか、最近は外を歩いているだけで泣きそうになることが多い。
病気の自覚の問題なのか、飲んでる薬の問題なのか、ぶっ倒れてからそういうことが増えた。
この世の中は美しいものであふれていて、人間ばかりが醜く見える。
けれど、あふれている美しさの、その多くの部分を人間がつくった。
希望にも絶望にも辿り着けずに虚無に身を浸している。
世界は美しいです。生きるに値するかは別として。
今日もただ泣きそうになるばかりの一日でした。楽しい日々です。

河井寛次郎展に行った。
陶芸/陶器のことなんか欠片も知らないので、解説のほとんどを理解することができなかった。
とは言え美しいものは美しい。
存分に堪能することができた。
あふれている美しさの、その多くの部分を人間がつくった。

生前葬を考えている。
賑やかで明るく楽しいものではない。
ひとりきりで簡素に形式的に執り行うものだ。
生前葬という言葉に出会ってから漠然と抱いていた憧れとイメージが、幸運にも他者の手により具体化した。
僕は早く余生を生きたい。
可能な限り人生を軽々しく扱いたい。
他者と比較したとき、自分はかなり人生を楽しんでいる方だと思う。
その自覚はおそらく他者が僕に抱く印象との間に大きな齟齬が生じないもののはずだ。
しかし、人生の充実と当人の欲望には相関がないのだ。
僕はこの幸福な人生を平穏に継続させることを望んでいる。それは間違いがない。
では、何故。と問われるだろう。軽々しく扱いたがるのは何故だ。
簡単に説明ができる。
自分が生きていることそのものに不自然さを感じているのだ。
もうずっとその感覚は傍らに居座っている。
整合性を取りたい。
生前葬をやりたい。
生命を継続させるために意識を断絶させたい。
美しいものに醜いものとして接さずに済むように。

この世の中は美しいものであふれていて、人間ばかりが醜く見える。
けれど、あふれている美しさの、その多くの部分を人間がつくった。
世界は美しい。忘れるなんて、卑怯だ。

 

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楽しいことは適宜起こっている

 

Twitterはゴミ捨て場みたいなものだと思っている。
自分の使い方の話だ。
だから、誰かのTwitterを見るときなんかは、たとえばたまに泣きそうになる。
世界は美しいです、と断言してもらえた日には、おそらくずっとその言葉を咀嚼し続けるんだろうと思った。
顔も知らない友人の友人からもらった言葉を指針として生きていくことだってできるわけだ。

お前がTwitterをゴミ捨て場として使っているのはわかった。
ならばblogはなんだ。
と、問われると、こちらはもう少しマシなものにしようと足掻いている最中だ。
だから今はこうして文字を叩きつけている。
伝わればいい。伝わらなくても続ける。

事実を羅列したくはない。
それは感想文未満になってしまうから。
とはいえ、一昨日の夜。
大きい音、小さい音、数年振りの友人たち、ほぼ初対面の女の子との長話、全く初めてなのに話が合った人、いくつものうた、あらゆる音。だった。
だったのだ。
酷い抑鬱が霧消した。
音楽にはもしかしたら力があるかもしれない。
あるいはそれは人との出会いにも。
楽しい一夜だった。

そう、楽しいことは適宜起こっている。
それぞれの印象深さは別として、適宜。
楽しいことは適宜起こっている。
それを強く自分に紐付けていこうと思う。

さっき買い物ついでに散歩をした。
数ヶ月前なら煙草でごまかしていたくらいの空腹を満たす少しの(本当に少しの)なにかを買うための・そのついでの散歩。
近所には見事な金木犀が煌々と輝いている。
おかげで少し散歩をするともう想い出だ。
歩いていく。
それは追い越したりすれ違ったりする。
追い越した側の話は、老人と僕の歩幅の違いに現れる。
当然のように違う歩幅はあっさりと僕と老人の位置を逆転させる。
どちらも進んでいるのに。
わかりますか?ぼくはこんなことに泣きそうになりました。
社会生活が営めるのか?営むしかないんだ。
幸いにも僕には素晴らしい(本当に素晴らしい)友人が居て、障害者手帳を取得したならば、という前提で、その雇用の成功モデルと言われている会社を教えてくれた。
福音のひとつの形式だ。
それは雇用そのものではなく、それを伝えてくれた友人を持てたことに対して。

かつて地元の堀の周辺がぼくの散歩道だった。
真夜中にうろついているとすぐに職質をされて、無限に満たされることのない孤独に苛まれていたぼくはここぞとばかりに警官と話し込んだ。
そんな真夜中、それでもすれ違うひとはいた。
ぼくはすべてのすれ違いに包丁を見ていた。
刺されるかもしれない。
切られるかもしれない。
それでいいのかもしれない。
痛いのは辛いかもしれない。
どうすればいいかわからない。
どうすればいいかわからない。

無事にすれ違うことができるたびに、ぼくはぼくのなかの何かが満たされる感覚と、永遠に毀損された感覚の、両方に苛まれていた。

こちらからそちらへの距離。
それは計測できるものとして在るだろうか。
在ったなら、それもひとつの福音の形式だろう。

そういえば近頃はアメリカンドッグにハマっていて、散歩をしたのもそれを買うためだ。
甘い。
散歩の道すがら書こうと思っていたことは次々に消えていって、その成れの果てがここに結実している。
伝わればいい。伝わらなくても続ける。

 

「かわいい うれしい」

 

www.news-postseven.com

 

最近よく泣きそうになる。情緒が不安定になっている証拠だ。

その延長なのか、この記事を読んだときは号泣してしまった。

いい歳をした大人がしゃくりあげて泣いた。

泣いた理由は自分でもわからないし、安楽死の是非もここでは問わない。

とにかく、号泣してしまった。その事実だけが残った。

情緒が不安定になっている。

それは貧困と関わりがあるのだろうか。

病気との関わりがあるのは自明なので今更問うまでもない。

 

最近はよく四方井さんの絵を観ている。最近は、というより、毎日観ている。

熱狂的なファンというのだろうか。それよりはもう少し悪い表現の方が適切な気がする。

何せここ半月以上、四方井さんの絵に言及しなかったことがない。

そろそろご本人に怖がられるんじゃないかと自分で思うくらいだ。

それくらい僕は勝手にあの人の絵に救われ続けている。

特にこの絵だ。この絵がアップロードされてから観なかった日がない。

観るたびに泣きそうになったり救われたりしている。

泣いている女の子を笑顔にする「ぞうさん!!!」はとても尊いものだと思う。

願わくば自分のところにも来てほしいし、傲慢にも自分自身がそうなれたらとも思う。

「かわいい うれしい」が何よりも大事なのだ、本当は。

人間は忙しすぎてそんな単純なことを忘れてしまっている。

貧困も病もないのだ。

「かわいい うれしい」を見つけたり、分け合ったりする暮らしができればそれでいいんだ。

 

双極性障害という病には相変わらず振り回されている。

九月はまるまる鬱で潰れたし、十月に入って少しマシになってきているかなと思ったら一昨日くらいから九月よりも悪い鬱に入りかけている。

躁転したいと思うことしきりだが、躁転後の恐ろしい抑鬱を考えるとそういうわけにもいかない。

金銭はどんどん目減りしている。

頼りにしていた福祉制度もどうやら要件を満たしていない可能性が出てきた。

その落胆も抑鬱を引き寄せたひとつの原因だろう。

結論としてはこの状態で就労するしかないのだが、それができないからこの状態に在るわけで、矛盾をねじ伏せて精神を誤魔化して身体を動かさなければいけないという事実がより抑鬱を加速させる。

何もかもが悪い方向に向かっているという錯覚が自分を支配しつつある。

それをメタ的に認知して面白がれているうちはまだ大丈夫かな、と思っているけれど、果たして。

 

十月に入ってからやり始めたことがある。

「食われかけのメジロ」という自分たちでもよくわからない音楽の公開だ。

十九歳の時から同居人の谷口と共に断続的に、今に至るまで七年も続けてきた。

誰に聴いてもらうこともなしに、ひたすらに録音だけを重ねてきた。

それを音楽と呼ぶこと自体が音楽に対する冒涜だと思うし、思われても仕方ないとも思う。

けれどこれは本当に僕達なりの音楽の一形態だということがいつか伝わればいいなと思っている。

というか、伝えるために押し付けるために七年越しに活動を始めた。

いまの段階でちらほらと反応してくださる方が居るのは本当に嬉しいし幸いなことだ。

やはりやっていくことが大事なのだなと改めて感じている。

やっていく。

メジロ以外にも、ふたりとも真面目に、というとおかしいが、一般的な定義に則ったかたちの音楽もやっているので、そちらも近いうちに公開していく。

しかしやはり僕達がいま一番力を入れているのは一番ウケが悪そうな「食われかけのメジロ」だ。

できる限りの手を尽くして一人でも多くの人を困惑させることができれば、と思っている。

 

そういえば最近はツイキャスというものをやっている。

これももう半月以上は毎日続けている。

基本的には谷口に音楽的なことをさせるためにやっているのだけれど、これがまあびっくりするほどウケが悪い。

なんとなくその理由もわかっているのだけど、改善するとそもそも始めた理由から遠ざかるし、どうしたものかと考えている。

思っていたよりも自分たちは記録媒体向けであるらしい。

配信のリアルタイム性を上手に活かすのは難しいということを痛感するばかりだ。

何よりも問題なのは、自分がひとりで夜中に精神病に関連した話を愚痴っているときのほうがよっぽど集客力があるということだ。

観てくださる方々が居るのは本当に嬉しいしありがたいのだが、眠剤でヘロヘロになりつつ愚痴っているだけの内容が果たして観てくださる人々を満足させられるものになっているのか、そして毎日やっている配信のウケの悪さはそこまでのものなのか、という思いが去来する。

だからと言って毎日の配信は続けられる限りやめるつもりはないし、個人的な配信も自分自身が愚痴を言いたいだけであるという前提がある以上、両方ともこのかたちで続けていくしかない。

そしてどちらについても奇特な方々にお付き合いいただけていることは本当に嬉しい。

その中で有益な意見交換ができていることや、自分たちだけでは届くことのなかった知識を御教授していただけることがあるというのはとてもありがたい。

実に喜ばしいことだと思う。

 

喜ばしいことだ、で終わらせてはいけない。理由を述べよ。

毎日の配信については既に述べたので、愚痴についての話を。

そもそも何故愚痴を零しているのか。

ひとつに福祉制度についての不満、もう一つが精神病患者に対するいまも払拭できていない偏見、その二点に自分が翻弄されているからという理由だ。

これは自分が言い始めたことでもあるし、勧めていただいたことでもあるので、近いうちにちゃんとした記事として纏めて公開できれば、と思っている。

そのためにはちゃんとした勉強とある程度具体的な取材が必要で、それに要する時間と気力を振り絞らなければいけない。

抑鬱気味でもなんとか身体を動かそうと思っているのはそういう理由もある。

なんとか自分に出来ることをして、それで誰かが楽になってくれれば幸いだ。

それは利他的な行動ではなくて、あくまで利己的な行動としてやっていきたい。

そもそも自分はボランティアというものにファック・オフという気持ちを抱いているので、善良な人格としての行動は全く御免被るのだ。

誰かを生き延ばすことができれば巡り巡って自分も生き延びられる気がする。

それが唯一の大きい理由だ。

思いついたり考えてもらったりでできそうなことはいくつかある。

ひとつずつやっていけたらと思う。

誰かの「ぞうさん!!!」になるために、「かわいい うれしい」を広げるために、何よりも自分が生き延びるために。

少なくとも現在の自分については、「生きろ」と言ってくれる他者がいるうちは可能な限りその想いに応えていきたいと思っている。

いつかまた考えが変わる可能性も充分あるけれど、とりあえずは現在とその延長の未来だ。

 

存命していきましょう。

みなさん、存命です。

とりあえずはそこからです。

 

あらゆる花が手向けられ、むせるような香りとともに

 

わたしは、橋の上から全てを見下ろしていました。
おそらくあれはこの世の全てでした。
何故って、いまでもそうとしか思えないからです。

ビルの群れ、ガードレール、極彩色、空、木々、誹謗中傷、虎、雷鳴、峡谷、室外機。
あらゆるものが平面に展開されていて、わたしはそれを一度に見ることができました。
帰ってこれたのは多分、偶然なんだと思います。
橋の終わりには猫が居ました。始まりには花が手向けられていました。
花はガーベラでした。彩り豊かなガーベラの花束でした。
わたしは確固たる意志で始まりに向かいました。
何故って、わたしがガーベラに一方ならぬ愛着を持っているのはあなたもご存知のはずです。
猫は寂しそうに鳴いていました。何度振り返ろうと思ったことか。
しかし、それは禁忌です。
意志が固められたならば、それは成し遂げられるべきなのです。
真っ直ぐに花束に向かっていくと、どこからか蝋梅の香りがしました。
わたしは全く突然にわたしの正しさを知ることになりました。
花束を手に取ると、もはや谷底はこの世の全てではなくなっていました。
ゆっくりと歩きました。一定の歩幅で、一定のリズムで。
今度はわたしが花を手向ける番です。
この小さな石の塊にあなたが囚われてから幾年が経ったでしょう。
あなたのことです、ようやく彼岸に慣れたころでしょう。
此岸はすっかり変わってしまいました。
間違えることを恐れる人が増えて、わたしもいまやその一人です。
あなたはきっと幻滅するでしょう。
わたしも認めたくはありませんでした。だから手を尽くして、そして諦めました。
ほろびたまぼろしを取り戻すことは、とても難しいものでした。
まぼろし。ほろびたまぼろし。
まぼろしについて考えるとき、わたしはいつもあなたのことを思い出します。
あなたはいったいどういう存在だったのでしょうね。
みながあなたを惜しみ、葬列はどこまでも続いていました。
あらゆる花が手向けられ、むせるような香りとともにあなたは眠りましたね。
わたしはいまになって思うのです。
あなたこそがほんとうのまぼろしだったのかもしれない、と。
わたしは、わたしは。まぼろし。ほろびたまぼろし。
わたしは、あなたの存在を確信することができなくなってしまいました。
けれども、あなたの不在を承認することも未だにできません。
もしも初めからあなたが存在しなかったのだとしたら、この石の冷たさも誰にも届かないのでしょうか。
不在が存在を裏付けるはずでした。
わたしはずっとそう思っていましたし、いまでもそう信じようと努めています。
それは、もう、信仰の様相を呈しています。
信仰。
いっそ信仰にまで昇華してしまえれば。もしかするとあなたは。
不在、存在、信仰、ガーベラ、猫、葬列、花束、まぼろし、彼岸、此岸。

わたしは、石の冷たさとかたちを記憶から消しました。
おそらくあなたはこの世の全てでした。
何故って、いまではそうとしか思えないからです。

 

助けてくれ

 

圧倒的な無力の前では気力も努力もあったもんじゃなくて、九月は俺の鬱、本当に丸々一ヶ月死んでいた。
働かなければという焦燥を抱えながら、動かない身体に悶ながら、どうしても外せない用件のために地元に帰れば地元で倒れ伏し、這々の体で京都に戻れば京都で置物と化していた。
26年の人生の中で積極的に働きたいと思ったことなど数少ないが、先月はずっとそう思っていた。
それは単純な証明になると思ったからだ。
身体が動く、人並みにやれる、まだ大丈夫、そういうことを証明したかった。
双極性障害というのはよく言われているように躁よりも鬱のほうが厄介で、その厄介さを痛感させられた一ヶ月だった。
八月上旬の身体すら動かなくなる抑鬱のほうが諦めがつくだけ幾らかマシで、先月のそれは身体はギリギリ動いてしまった。
心に躊躇い傷が増えていく感触だった。
俺はもしかしたら本当は今すぐにでも社会的な行為ができるのにただ怠惰によって先延ばしにしているのではないか、という考えが何度も頭をよぎった。
自分を責める感情にばかり支配されていた。俺は無価値だ。俺は無意味だ。俺は存在していてはいけないんだ。そう思っていた。
このまま死んでしまうかもしれないと思いながらも積極的に死に向かわない限り生命は続いてしまう。
そのために何の言い訳もできない完全な借金まで生まれてしまった。
加えて、九月の死は医療すら俺から奪おうとする。
丸々動けなかった間に無保険扱いになっていて、遡って医療費全額支払いの可能性が出てきた。
端的に言って破産だ。貯金なんてもうほとんどなくてそもそもの生活が怪しくなってきたのに、医療費の支払いなどできるわけがない。
生き延びるために仕方ない、と割り切って作った借金の数十万円は仕方ないけれど、保険の切り替えに関しては勘弁してくれという思いだった。
制度だから仕方ないのかもしれないし、もしかしたら遡って保険を支払うことができて事なきを得られるかもしれないが、ただひたすらに面倒臭さを募らせている。
健康に生きられる人間じゃないとまともに受けることができない福祉というのはやはり設計上のミスだと思う。
特に俺みたいに精神が終わっている人々にとってはそうではない他者が想定する数十倍のハードルがそこにはそびえ立っている。
おそらくは単身の傷病者を想定していない時代につくられたシステムなんだろう。
あたりまえに家族が前提としてあるんだと思う。
家族。
一身上の都合で実家を出ざるを得ず、他者の人生に責任が持てる甲斐性がない俺に、その前提は辛すぎる。

こういうときに都合よく差し伸べられる救いの手、というものが人によってはあって、自分もそれを淡く期待しないではないけれど、見えてもいない他者に寄りかかることが何の解決になろうか。
死んでしまってもいい、とは思っているけれど、積極的に死にたくはない。少なくとも今はまだ。
ならば、問題を解決するしかなく、そのためには精神が終わっていようと身体が鉛になっていようと動かなければいけない。
天は自ら助くる者を助く、という。
ファック・オフである。
今までの人生を間違っていたとは言いたくないけれど、一点だけ絶対に修正しなければいけない部分があるとすれば、自ら動こうとしなければ周りもどうしようもないということだ。
幸いにも自分は運だけでなんとかなってきたし、この期に及んで多少は楽観していられるのも幸運によって得られた僅かばかりの知識のおかげだが、人生の運用を全て幸運に任せるわけにもいかなくなってきた。
少なくとも生き延びたければ叫び声をあげる必要がある。
助けてくれ。
その一言で差し伸べられる手は思ったよりも多いはずだと信じたい。
だから、助けてくれ。未来の俺やどこかの誰か。

とはいえ現在己で出来ることは可能な限りやらねば仕方がない。
福祉に殴り込むことや職に就いて食い扶持を稼ぐことはもちろんだが、それは生存に必要な行為であって、それだけではすぐにまた死が訪れる。
我々に必要なのは何よりも精神の安定であって、それはもしかすると単純な生存よりも優先されるべきものかもしれない。
だから最近は精神の均衡を保つために少しずつやることを増やしている。
継続が力を生むかはわからないが、意地が発生することは周知だ。
愛によって煙草をやめてからもうすぐ三ヶ月、誰に望まれているわけでもないInstagramももうすぐ一ヶ月。
ツイキャスやSoundCloudも続けられる限りは毎日続けるつもりだ。
たとえ職に就いたとしても可能な限りは毎日やりたい。
その内容や自分なりの意義については、また改めて書きたいと思っている。
誰に読んでもらう予定もないけれど、書きたいと思っている文章はたくさんある。
何になるわけでもないけれど、やりたいと思っていることもたくさんある。
とにかくまずは自分がおもしろいことをやりたい。
そして可能ならば誰かにもそれを楽しんでもらえるようになりたい。
ゆくゆくは、やわらかいものをつくりたい。

明確な出典は見つからなかったけど、借金を苦に自殺する人間の、その金額のボリュームゾーンは200万±100万円だそうだ。
つまり俺がいま死んでしまうと、一番ありがちな原因での自殺になってしまい、それは全くおもしろくない。
せいぜい良くて「いいやつだったのにな」「おもしろいやつだった」と悲しんでもらって終わりだ。
コンテンツにもなれやしない。そんなのは絶対にゴメンだ。
死後も語り継がれる存在になりたいわけではないけれど、ありがちに消費されることへの嫌悪感は隠せない。
人間は人間である限り類型から逃れることなんて出来ないんだから、だとすれば少なくとも死ぬときくらいは類例の少ない死を望みたい。
そう思う原因がどこにあるのかは自分でもつかめていないけど、そう思うものは仕方ないでしょう?
だからまだ死ぬわけにはいかないし、ここで終わるわけにはいかないのだ。
病気は薬でなんとかできる、金銭は生きていればなんとでもなる。
日に日に双極性障害という病気を憎む気持ちが募る。
こんなはずじゃなかったと思う、なんで自分ばかりと思う。
けれど折り合いを付けていかざるを得ないのだ。
多分生きていくことはそういうことだ、と誰かが言っていたのを聞いたことがある。
人生だ。
分解して部品を検品していけば、おそらくそのほとんどが「面倒臭さ」で作られている。

俺にはまだできることがたくさんあるはずだ、と己に言い聞かせることしかできない今が歯痒い。
十代の頃の万能感はやっぱり日に日に衰えていて、こんなところだけレール通りに進むことに納得がいかない。
現在の自分が過去の無数の自分の総決算だと考えると、俺はやっぱり、まだ何一つ成し遂げられていない。
下手に地元の名門高校に進んだばっかりに、自分は高卒底辺なのに周囲はエリートだらけで感覚が狂ってしまっている。
こちら側とあちら側を区分けするものは何だろうかと、考えたくもないことを考える毎日だ。
答えなんてわかっているけれど、それを認めたくはない。
それを認めたくはないということも自分を死から遠ざけてくれている。
あるいはそれもありがたいことなんだろう。
何よりもまずは死なないことが大切なのだから。

天は自ら助くる者を助く。
なにはともあれファック・オフである。
俺は自分の人生が解決したら迅速に誰かの問題を助けたいと思っている。
とにかくいまは自分に力が、甲斐性がないことが悔しくて仕方がない。
エゴでも偽善でもなんでもいい、自分がされて嬉しかったことをひとにしたいと思っている。
傲慢だろうが構わない、「都合よく差し伸べられる救いの手」を俺は可能な限り差し伸べたい。
天は自ら助くる者を助く、なんて弱腰の姿勢には、やはりファック・オフしかあるまい。

しかしとりあえずは己の生活である。
死にはしないと思っているが、このままでは不都合が多すぎる。
助けてくれ。
誰か。
明日の俺か。

 

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秋が来る

 

昨日今日と散々な状態に陥っていたが、頭の方は割と明晰だったので積極的に生き延びる理由を明瞭にすることに成功した。

頭脳さえ明晰であれば精神が最悪でもまだなんとかなる。

身体の方はこれから少しずつ整える。

生き延びるのだ。

生き延びて生命をやっていくのだ。

少なくとも今はその理由がある。

 

積極的に他者に向けて何かを働きかけるということを意識的にすることがとても不得意な気がしている。

けれど、友人知人からはむしろサービス精神の旺盛さを褒められることもあって、彼我の認識の溝に戸惑う。

十年近くも自分のことだけについて延々と文章を書き連ねている人間が営業や接客に向いているとは全く思えない。

ただ、周囲の人々が断続的にずっと似た傾向の職や生き方を勧めてくれるということはやっぱりなんらかの理由があるのだろうとも思う。

なんにせよとりあえず生き延びるためには行動を起こす必要があるし、生存を超えて生命をやっていくためにはより行動する必要がある。

ぶっ倒れては死にたがって薬と酒で誤魔化してるけど、そんな日々の中でも自身の基礎を自殺から遠ざけるための地道な積み重ねはできていると思う。

褒めてほしい。素直に、単純に。

 

褒めてほしい、というか、自分を褒めることができた出来事がひとつあった。

いつの間にか奇縁となってしまった友人の慶事をようやく心から祝福することができた。

やはり時間の経過というものは大きいということを再確認した出来事であり、生き延びることの重要性を強く再認識した出来事でもあった。

何よりも、祝福を素直に喜んで貰えたことがとても嬉しかった。

俺は相変わらず自分のことばかり考えていたから自分自身の一区切りのことばかり思って肩の荷を降ろせた気分になっていたけど、一区切り付いたのは向こうも同じだということに友人と対面して初めて気付いた。

当然、若干の自己嫌悪に陥ったけれど、暫く振りの友人との時間の共有を台無しにせずに済んだのは図らずも友人との間に大きく横たわっていた時間的空白のおかげだった。

有り難いことに彼も、そして当然のように俺も、つまり互いに、その空白を埋めるために全力を注ぐことにばかり気を取られて、気が付けば単純に心から楽しい一夜を過ごしただけで終わった。

それは全く理想的な一区切りだった。

 

双極性障害という診断が確定してから、ますます自殺について考えている。

というのも、この病気の5人に1人は自殺で死ぬというデータがあるらしい。

ちゃんと書籍や論文を読むことはまだ出来ていないけど、自殺率が高いことは間違いのない事実みたいだ。

もともと俺は希死念慮というか自殺に憧れるゴミみたいな精神性を高校の頃くらいから持っていて、十九のときに初めて明確に精神がぶっ壊れて以来はますます自殺のことばかり考えるようになった。

以来、断続的に自殺から緩やかな誘惑を受け続けている。

適切な治療を受けるようになってもその誘惑はまだ残っていて、これは恐らく一生付き合うことになるのだろうなと思う。

けれど俺は今までODも自傷行為もしたことがない。

怖いからだ。

痛いのは嫌だ。

苦しいのも嫌だ。

幸せになりたい。

そんな人間に果たして自殺が出来るのだろうかということを最近はよく考える。

それとももしかしたら、禁煙をしたときのように突然断固として死んでしまうのだろうか。

こういう風に自然に自分が自殺をする前提で物事を考える癖がついているので、冒頭に書いたように生き延びる理由を確認することが大切になってくる。

それはどんどんと明瞭にしていくべきだし、あまり限定的にするべきではないと思う。

何かを成功させるため、というのを生存の第一目的にしてしまうと恐らく死に至る可能性は大きくなってしまう。

生き延びる理由は「ご飯を食べて美味しいと感じたら一週間頑張る」とかそれくらいの方が自分には向いている。

その上で、生きているからにはあれをやろう、という風に生命をやっていくのだ。

 

生命をやっていくのだ。

生きているからにはあれをやろうなんていう、今更な綺麗事でも改めて掲げなければ俺は人の心ひとつも慮れない。

月並みだけれど、俺を死なせたくない、俺に死んでほしくないと思ってくれている人たちに報いたいと思う。

思えているのだ、今は。

そう思えているうちにそうせざるを得ない環境を構築して、更に生存と生命の可能性を上げていく。

俺だってみんなには死んでほしくないし、死なせたくないと思う。

それは俺の勝手な気持ちだから強制力なんて全くないし、背信行為だとも思えないだろうけれど、やっぱりただ単純に寂しいだろうなと思う。

 

寂しいのはよくない。

ただでさえこれから秋が来る。

 

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自意識の色調

 

なんだかいつの間にか一週間近く間隔が空いた。不覚である。

電車の中でiPhoneをぽちぽちやってこの文章を書いているが、正直、寝不足の頭では纏まる気がしない。

それでも書くことはやめたくないので散漫に書いていく。

 

この一週間は楽しいことばかり起きているのに極めて精神状態が悪い。

抑鬱かと思ったが身体はとても軽いのでそうでもなさそうだ。

混合状態というものとも少し違う気がするし、やはりただ単純に精神状態が悪いだけなのだろうか。

だとしたらこれこそが健常者が感じる辛さなのだろうか。

もう自分が健常者だった頃のことなんて思い出せないので新鮮な気持ちだ。

 

書くことはやめたくないと書いたが、別に文筆業をやりたいわけではないことは最近改めて確認した。

書くことで金銭が発生すればそれは嬉しいけれど、それを主軸として生計を立てていこうという意志は自分の中になかった。

結構探したのだけど見つからなかった。

なんとなく十代の頃はぼんやりと小説家や文筆業に憧れていた気がするので、時の経過によるものなのかもしれない。

 

というか、そもそも自身が金銭を得て生計を立てていこうという意志が希薄な人間であることがどんどんわかってきた。

どうも一般的に想像される金銭を得るための手段はそのほとんど全てが自分にとって苦痛が大きく、端的に言ってコストパフォーマンスが悪い。

これは障害の問題ではなく人格の問題だろう。

本当に心の底から人の役に立ちたくないと思ってしまう。

積極的な欲望はいくつかの物欲を除けばやはり「人心を惑わしたい」の一言に尽きる。

そういう類の人間である以上、他の社会を知るまでもなく、この社会だけでなくどの社会にも完全には適応できないのだろうと思う。

どれだけ友人に囲まれていてもずっと居場所がない感覚があるのはそういう理由なのかもしれない。

 

金銭の心配は全くしておらず、それには全くの根拠がない。

自分には昔から「どうせ金はいくらでも手に入る」という強い思い込みがあり、この期に及んでもまだその信仰は折れない。

我ながらもったいないと思う。

病気でさえなければ相当強いメンタルの持ち主として生きられたはずだ。

 

双極性障害との付き合い方がまだよくわかっていない。

先生の口から確定した診断名を聞いたときは安心と共に悔恨を感じた。

これから一生リチウムを飲む生活だということにはまだ現実感が湧かない。

せめてこの精神障害を全力で利用してやろうと思う。

これはポジティブに考えているわけではなくて徹底した諦観によるものだということをわかってもらえると嬉しい。

 

やはり全体として暗い色調の文章になる。

それにしても俺は十年近くに及んで徹底して自分のことしか書いておらず、我ながら少し感心してしまう。

自分のことが好きというよりは自意識の取り扱い方が下手なのだろう。

認めるわけにはいかないが、他者にまで視野を広げる余裕がないのかもしれない。

そんな人間が他者に向けての表現を活性化させていこうというのだから無謀だ。

けれどやりたいことをやると決めた以上はやっていく。

 

薬を服用するようになって一番変化があったのは病状よりも思想・信念だった。

薬剤で精神が簡単にコントロールできる以上、生きていくためには好きなことをやるしかないという考えが先鋭化した。

させるしかなかった。

人間が所詮電気信号と化学物質によるシステムである以上、自由意志の存在を信仰するためには欲望を可視化するしかないと思った。

生を肯定するためには自由意志の存在が不可欠で、そのためには欲望の可視化が絶対条件だ。

自分は好きなことをしたという証拠が自分が生きていくための根拠になる。

 

そういう観点から言うと、これから始める諸々の最初期は他者の存在を無視したものになってしまうかもしれない。

当然できる限り最大限それは避けるべきだと思っている。

何せ始めるのがかなり遅れた。

これから色々と探っていくしかない。

生命のためというよりは生存のためにやっていく。

 

夢で見た「岡山県ひひひ市」というフレーズが頭から離れない。

 

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ちょっとした失踪の連続


俺は今度は失踪を口説き文句にしようと思うんだよ。

世の中にはいろいろと二つに分けたがる方法がありますね。
今回は「よいもの」と「ダメなもの」で分けます。
前の職場はダメなものでした。
確認してまいりました。
いろんなものがいっぺんに来て、ダメでした。

(本当に、本当に辛かった。)

(俺は何一つ悪く無いはずだって今でも胸を張って言えるのにな。)


なんでわざわざ確認しに行ったかというと、単に道のりのついでだったからです。
(あと、本当にダメかどうかを確かめたかった。)

ちょっとした失踪の道のりのちょっと先に前の職場があったので、それで確認しに行った。
それだけ。

さて、ちょっとした失踪。
失踪の意味を見よう。

行方がわからなくなること。また、姿をくらますこと。失跡。
三省堂大辞林より。

ねえ、これ、ねえ。
無職の毎日のお出かけ、行き先さえ誰にも言わなきゃ失踪なんじゃないの?
ちょっとした失踪の連続なんじゃないの?
それどころか職があるあなたがたのお休みのお出かけも、黙秘を貫けばちょっとした失踪って言えるんじゃないの?

自分一人だけの行くアテがあるのかないのか、なんにせよ胸に抱え込んで、さぁさ一歩を踏み出しましょう。

これであなたも立派な失踪者じゃありませんか。

語義を確認するということは時々本当に大事になります。
今回のそれがそれです。それがそれです。ですね?

大事になりました。改めて確認することの大切さです。


失踪はよいものとダメなもので分けるとどっちでしょう。
多分本当はダメなものなんでしょうけど、だからそれがゆえによいものです、少なくともいまここでは。
よいもの箱に入れましょう。
よいもの箱に入れたよいものは時々抱え上げて光に透かしてみたりなんかするといい匂いがして落ち着きますよ、やってご覧なさい。
多分そんな感じのが薄呆けた愛の一つの形でもありますよ。

さて失踪。
一泊でも日をまたぐと本格的な失踪になりそうな語義の在りようです。
じゃあとりあえず日帰りな分をちょっとした失踪にカテゴライズしときましょうね。
立ち飲み屋でいっぱいひっかけるみたいな感じでね。
飲んでるうちに入らないってー、こんなのー、みたいな感じで、でもちゃんと飲んでるってあれだ。
それの失踪の場合を日帰りの失踪に設定しよう。

そして失踪とはひとりぼっちの独占物かと言うとそんなことはないんだ。
誰かと二人でする失踪もあるだろう。あっただろう。あるはずだ。
だから僕とあなたで、誰にも行き先を告げずに、SNSにも終ぞ動向を載せずに、二人だけの完璧な失踪をやり遂げることができる。
これはとても素敵じゃないですか。
よいもの箱に入れましょう。二人だけの完璧な失踪。
よいもの箱に入れたよいものは時々霧吹きで薄く水を吹いてやると小刻みに震えて気持ちよさそうにしてくれますよ、どうぞやってご覧なさい。
怖がることはなにひとつありません。
全てが、完全に、満ち足りている日の午後の話です。

冒頭を繰り返す。

俺は今度は失踪を口説き文句にしようと思うんだよ。

だれか俺と二人で失踪しないか。
短くて、満ち足りた、道に迷ったりもするけど美味しいものを食べたりもする、そんな失踪。

失踪は誰の前にも開かれて在る。
みんなも失踪しよう。
笑える失踪を重ねることで、笑えない失踪を回避しよう。
大概の物事の大小の関わり方ってのはそういう具合に上手くハマってんだ。

 

レモンが必要な派閥

 

こないだ肉を食うにあたって、タンにはレモンが必要な派閥もあるかもしれない、と思い、ポッカレモンをお買い求めようと思ったんだけど、どうしても見つからない。
仕方がないので店員さんに聞くも、「ポッカレモン」という名前が出てこない。

「すみません、あの、レモンの形したレモンの出るやつ、あれなんでしたっけ?」
「レモンでございます」

その通りだ。文句言えない。
ちゃんと「こちらでございます」って調味料コーナーに連れて行ってもらえたからよかったようなものの、果物コーナーに連れて行かれても仕方ない。
レモンの形したレモンの出るやつはレモンだし、よく考えたらポッカレモンじゃくて普通のレモンでも別にいい。
じゃあ何故オレはポッカレモンにこだわったのだろう……?

結局タンがそのままで旨すぎてポッカレモンは全く使いませんでした。

肉を食っている最中、どういう流れでそういう話になったのかは覚えていませんが、「人間らしさというのは振る舞いのことだ」という重要な知見を同居人達と共有することに成功した覚えがあります。
もしかしたら向こうにはないかもしれませんが、あります。
やはり全ては演出なのです。
幸福たれ万民。所詮は主観だ。相対するな。

兵馬俑フェスについては最早語るまでもありませんね。
爆上げ。
始皇帝が煽る煽る。

薬の影響なのかなんなのか、ところどころ記憶が抜け落ちている場面があって、今のところそれが色濃く出ているのがTwitterだ。
書いた覚えの全くない文章が毎日幾つか見つかる。
だいたいはフルニトラゼパム摂取後なので一種酩酊のような状態になっているのだろうか。
でもほとんどの場面でフルニトラゼパムとアルコールがセットの生活を送っているのでどちら由来かわからん。
そんでそういう書いた覚えのない文章を見返すのは割と楽しいよね。
自分の中に別の自分が居るみたいで、自己というものを主観的に同一視するために必要とされる担保は一体なんなのだろうというポップな気分になる。
そういう理由でアイコンも変えたんだよね?ドット絵にしたんだよね?
イマイチよく覚えてないんだよね。
魚よりは可愛いから別にいいんだけど。

京都大阪で誰か大きい音一緒に出そうという誘いに期待通り誰も反応をくれなくてむしろちょっと清々しい。
26歳にもなって一から戸惑いつつライブハウスのシステム覚えたりするの面倒くさいんだよ。
別にライブハウスじゃなくてもいいんだけどね。
めんどくさい以外にも誰かと一緒になにかやりたいって欲求があるんだよ。
単純な気持ちよさだけで言ったら絶対オナニーの方が上回るけど、ぬくもりとか反応とかフェチズムとかが醍醐味だからセックスは素晴らしいんじゃん。
時間と空間と内面を共有して身体的に繋がるからおもしろいんだろ。
オレはセックスがしたいっつってんだ。
大きい音、出そうよ。
流石にもうオナニー飽きた。
し、ひとりでやる分にはこれからいくらでもやるんだ。
とりあえず五年ほど前のうたとか音とかアップしていく。
若さを出していく。

ずっとスコット・ラファロのベース聴いてる。
説明ができないくらいに好きだ。

そんな感じの文章でした。
頭のなかを全部出したい。まだまだ先は長い。

 

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