あるものこばみ

見える限りの遠くの向こう

星空の贋作と可視化する石柱


編み出したというか、結果的にそうなっただけなんだけど、名付けるならば「有終の美」禁煙法はとても効果的であることをお伝えする必要があるので少しお時間をいただきます。
昨日は本当に本当にものすごく心の底から煙草が吸いたくて堪らなくて堪らなくて目の前のセブンスターを一本頂こうかと何度も葛藤がありましたが、「Golden Batの両切りが最後の一本」というログを絶対に上書きしたくないと思うとなんとか我慢できました。自分でも驚いた。
最後にはやはり愛が勝つのです。
平凡な綺麗事にこそ真理が宿っています。
殺す。

たとえばこの文章が延々と改行なしの一行で書かれたとして、それをバカ正直に水平方向にとても長い一枚紙として印刷するとしたら、それを読む人に対しての最初の挨拶は「少し時間をいただきます」ではなくて「少し時間と距離をいただきます」になるのだろうか。
延々と歩くことによって果てしなく中身のない文章を読む体験。
神戸あたりでやったら山で始まって海で終わらせられるかもしれないし、それは少し良い思いつきかもしれない。

今日は午前中に散歩しました。
プラネタリウムのことを考えていた。
そんなに回数は行ったことないし、本当に星座なんて全く知らないんだけど、プラネタリウムのことはたまに考える。
動物園でカバを眺めるのと同じ感覚でプラネタリウムについて考える時があります。
今日が久々のそれでした。
プラネタリウム好きなんですよ。
天体に興味もなけりゃ観に行くのも面倒臭いと思うんだけど、好きなんです。
その存在に勝手に安心感を覚える。
僕の中でどこまでいっても偽物でしかない存在の代表格がプラネタリウムです。
社会というのは茶番の集大成ですね。
つまりイデアが咽び泣くような出来損ないの贋作が贋作のくせに自分こそが本物だとでも言うような顔で自由に溢れているわけです。
絶対に殺す。と思うことしきりですが、それで上手に回っている側面は無視しちゃダメですね。
個人的な感想ですが、たとえば祈りなんかは茶番の中でも好もしいですしね。
けど理屈が幾らわかっても折り合いのつかなさは積み上がっていって、けれど賽の河原ですらない世知辛い世界には崩してくれる鬼が居ない。
すなわち自分で解体作業をします。
それがプラネタリウムについて考えることです。
美しく壮大で緻密な偽物。
贋作であることに価値があります。
安心しましょう。
最初にプラネタリウムを思いついた人間は間違いなく発狂していました、断言ができます。
その人間にも思いを馳せましょう。
そして安心しましょう。
偽物でも良いのです。
偽物だから良いのです。
そういうものがちゃんとこの世界にもあるんです。
安心できましたか?

プラネタリウムのことを考えながら歩いていたら墓参りに巻き込まれました。
散歩がてら寺でも覗くかーと歩いて、人の流れに歩みを任せてみたら見事に墓参りに巻き込まれた。
線香の香りとともに、連綿と続く血縁が可視化されています。
あの四角い石柱はそのための装置なのかもしれない。
まだ幼い子供が訳も分からずに手を合わせているのをぼんやりと眺める。
自分の知る限りここには私が手を合わせるべき人は誰一人眠っていないし、あるいはだからこそランダムな選択を経てどこかの墓石に手を合わせるべきなのかもしれない。
心なしか蝉の声は控えめで、その代わりに子供の声がよく響く。
緑は好きなだけ色を強めて、日差しは強すぎてむしろ笑えて、気休め程度のそよ風が結局頼もしい。

十年生存率というものがあって、だから父は本当になんでもないように、買い物を手伝わせるついでに気軽に遺言を放り投げた。
予想通りに予想してなかったタイミングで渡されたそれは予想通りに予想以上の重みで私の心に刻み込まれた。
延命も葬式も墓石も要らない。
言葉にすれば一行で済むし、事実父は一言で伝え終えて、私も「わかった」の一言で終わらせた。
おそらくは祖父と父のあいだにも似たようなやり取りがあったのであろう。
わたしが生まれる前に死んだ祖父。
仏壇はあるけれど墓石はない。
おそらくは。おそらくではあるが。

可視化できない血縁はほとんど呪いに近くて、そういうことが容易にわかります。

そういうことを考えました。
今日はたくさん歩きました。

 

やわらかい水色


今日も床は水浸しだ。

もともと水はけなんて考えてつくられてないんだから仕方ないってベテランの人たちは言うけど、仕方ないで済ませていいものじゃないと思う。
水の抵抗っていうのは思ったよりも大きくて、少し歩くだけでとても疲れるし、何より長靴をずっと履いていると足が蒸れてうんざりする。
でも今日は少し気分がいい。
何を隠そう今日の長靴は下ろしたてなのだ。
やわらかい水色。
色味のない作業服と合わせるとそりゃアンバランスだけど、職場、それも工場でトータルコーディネートなんて気にするだけ無駄だからよいのだ。

やわらかい水色。
わたしが一番好きだった空の色。
おねえちゃんがいつも歌ってくれた空の色。

ちょうどわたしの十四歳の誕生日に、世界から空がなくなった。
というのはもちろん比喩で、外に出て上を見ればそこはやっぱり空なんだけど、とにかく人類が空を失ったって発表があった。
いろんな国のその時の一番偉い人が同じ場所に集まって、とても悲しそうな顔で演説をしている様子が全世界で同時に放送された。
真夜中でもう寝ちゃってたからリアルタイムでは見なかったけど、その後ずいぶんと長いことどのチャンネルもその映像を繰り返し流したから、普段ニュースを見ないわたしでもうんざりするほど目にすることになった。
その時のわたしは今よりももっとぼんやりしていたから難しい説明はよくわからなかったし、学校で先生がひとりごとのように零した言葉の意味もいまいちピンと来なかった。
実は今でもよくわかっていない。
ただ、わたしが好きだったあの空の色はもう見られないんだ、ってことだけがわかって、少し悲しくって、でも涙は流れなかった。

それから四年とちょっとが経って、わたしは学校の推薦で近所の工場に就職した。
空がなくなっても人間の生活はそんなに変わらなかった。
相変わらず働いたり勉強したりしながらご飯を食べて眠っている。
わたしは高校で優等生とは言わないまでも問題児でもなかったので、すんなりと就職先が決まった。
もともとは機械の小さな部品をつくっていたらしいけど、空がなくなった少しあとからは雪をつくっているらしい。
らしい、という言い方になるのは、わたしが実際にここで雪を見たことがないからだ。
なんで雪をつくっているのかっていう理由も知らない。
興味がないと言えば嘘になるんだけど、なんとなく聞きにくい空気があったし、そもそもそういうことは最初に向こうから説明されるものだと思っていたからタイミングを逃したって理由も大きい。

とにかくわたしは雪をつくる工場で働いている。
もう半年になる。もうすぐで誕生日だ。十九歳。

次が十代最後の一年だと思うと少し真面目な気持ちになることもあるんだけど、あんまり実感が湧かなくてその真面目が続かない。
この調子でどんどん大人になっていくのかな、なんて考えながら今日もぼんやりと機械をいじっている。
半年も毎日同じことをしていると大体のことは頭をからっぽにしていてもこなせるようになる。
かと言って油断し過ぎると失敗して叱られるから、そこらへんのさじ加減が重要なのだ。
みんなそうだろうけど、叱られるのは嫌なものだ。
この職場はみんな良い人ばっかりだから、怒鳴られたり嫌味を言われたりするわけじゃないんだけど、いや、だからこそか、叱られるとかなりへこむ。
どうもわたしはわかりやすい人間らしく、へこんでいると周りのひとがとても気を使ってくれて、ますます申し訳なくなってしまう。
けど、そういうときにとなりのラインのおじさんがこっそりとくれるあめ玉は結構好きだ。
基本的に職場内での飲食は禁止なんだけど、この時だけはみんな見てみぬふりをしてくれる。
透き通った深い緑の色をしていて、口に入れるとほんのりと甘くて、そしてこれが一番大事なんだけど、とても素敵なお茶の香りが広がる。
紅茶ではないのだ。緑茶なのだ。
ギリギリとはいえ十代の女の子の好みとしては渋すぎるかなって我ながら思わないでもないけど、わたしはこのあめ玉が大好きだった。

色も、甘さも、香りも。みんなの見てみぬふりも。
全部やさしさだ。ちょっとだけルールを破ったやさしさ。

押し付けじゃないから甘さもちょうどいいのかもしれない。
わたしの思ういちばん良いやさしさをそのままかたちにしたみたいなあめ玉だと思う。
どこで売っているのか聞こうと思ったことは何度もあったけど、自分で買っちゃったらなんだかいろんなものが損なわれる気がして、未だに聞かないでいる。
そういうことは多分、たくさんある。

もう今となっては昔の話だけど、雪が空から降ってくるものだったころ、その結晶に同じかたちは二つとしてなかったらしい。
難しいことはやっぱりよくわからないけど、どうも、雪のもとになる氷のつぶがわたしたちのいる地上まで降りてくるときの条件が大事だそうだ。
その条件によって結晶のかたちが決まるんだけど、自然界では全く同じ条件なんて存在しないから、結果的に雪の結晶はどれもみんな違うかたちになるんだとか。
なんでこんな話をするかっていうと、わたしが担当しているラインがその結晶のかたちを決めるところだからだ。
かと言って、なにか図面みたいなものを渡されてそれを正確に再現する、みたいな作業ではない。
というか、それはとても難しいからできないと教えられた。
じゃあ何をするかっていうと、実は自分でも何をしているのかわかっていない。
渡されたよくわかんない紙に書かれたよくわかんない条件を教えられたとおりに機械に入力するだけ。
それだけ。
この作業にどんな意味があるのかなんて全くわからない。
入ったばかりの頃は誰かに質問してみようと思ったこともあったけど、そういうことを聞くのはなんだか失礼な気がしたし、多分だけど誰に聞いても答えなんて帰ってこない気もしたから、わからないままでいる。
というか、もしかしたらここで働いている人たちはみんなわたしと同じなんじゃないだろうかと思う。

だってそもそも、ここでつくられた雪はどこにもいかない。
どのラインでつくられた雪もみんな最後にはひとつのラインに集められて、そこを出たら溶けてしまう。

だからいつだってこの工場の床は水浸しだ。

さっきわたしはここで雪を見たことがないって言ったけど、これも正確にいうとわたしだけじゃなくてこの職場に居るみんなが同じだと思う。
温度管理だかなんだかで作業ラインは全部機械で覆われていて、雪は全部ずっとその機械の中を通っていくから、見ようと思っても見ることはできない。
わたしたちが見るのは溶けて消えてしまった雪の成れの果てだけ。
足元に溜まって歩くことを邪魔するこの水の高さだけがわたしたちが見ることのできるわたしたちの仕事の成果だ。
多分どこもこんな感じなんだろうなって思ってるんだけど、他の仕事をしたことがないからなんとも言えない。どうなんだろう。

もうなんとなく伝わってるだろうけど、だいたいわたしはずっとこんな感じでぼんやりしている。
自分のことも自分以外のことも、いろんなことをぼんやりさせたまま相変わらず働いたり遊んだりしながらご飯を食べて眠っていた。
気がつけばいつの間にか働き始めてから一年とちょっとが過ぎていて、もうすぐ十代が終わってしまうって焦り始めた頃に、突然天井が水色になった。
色彩による効果で集中力を高めるためとかなんとか、偉い人が朝礼で言っていた。
本当にそんな効果があるのかどうかわからないとみんなは言っていたし、わたしもそう思うけど、正直に言うと少し嬉しかった。
わたしが好きなあの色とは少し違うけれど、色合いが近いってだけで充分に好ましいものだ。
そういうものでしょ?

それに、下を見ると水色が水面に反射して、少し空に見えなくもない。
もうなくなってしまったあのなつかしいやわらかい水色。
そっくりそのままってわけじゃないし、偽ものと言ってしまえばそれまでだけど。
だけど、わたしたちは少しだけ取り戻したのだ。

あしもとに、空を。

おねえちゃんがいつも歌ってくれた曲の名前だ。

 

自転車を修理した話

 

正確には自転車の修理を待っている話。

昔のblogを漁ってみると、2009年の1月上旬に近所のホームセンターで今の自転車を買っていた。
特売品で9800円。
一切の修飾を排し「乗れればいい」を体現した無骨な自転車だ。
先代の自転車が高校入学時に買ってもらった12800円のもので、LEDオートライトやあれやこれやとにかく色んなセールスポイントがあるもので、そして呪われていた。
2年の間にパンクだけで10回以上、タイヤまるごと交換が3回ほど、それ以外の故障が5回ほど。
修理費だけで3万円以上は掛かったはずだ。
それに引き換え9800円の当代は約5年半の間、一度も修理に出していない。
今朝、後輪のパンクを発見したとき、とうとう来るべき時が来たか、と思った。

1万円で買った自転車が5年半もったんだから儲け物だ、潔く買い換えよう、と最初は思っていた。
父の車で自転車屋に行き、それなりに安くてそれなりに便利そうなものを探したら、大体2万円ほどで求める水準のものがあった。
これにしようかな、と決めかけた時に、なんか嫌だな、と思った。

高校を卒業して予備校生とは名ばかりのロクデナシになり、そのまま一年が過ぎて宅浪という名のニートになったその境目、一浪と二浪、ロクデナシとヒトデナシの境目の春に、自転車で京都に行った。
不合格発表を過ぎて数日、後期試験の出願もしていなかった僕は暇を持て余し、たばこを買いに行くついでに京都に行った。
財布の中にはタバコ代のあまりの10円、携帯の充電器なし、着替えなし、着の身着のまま雨の中自転車を走らせた。
財布の中身がそのまま全財産だった当時の僕は、本当に10円玉一枚で往復300kmを走破した。
本当に今考えても何がしたかったのか全くわからないし、今振り返ることができる幸運に感謝するばかりだ。
友人の好意がなければ死んでいてもおかしくない。
で、その時に乗っていた自転車が、今の自転車。

合理的に考えれば買い換えるべきなんだろうけど、なんか嫌だな、と思ったので悪あがきをすることにした。
一旦帰宅して自転車を押して再訪。
「すみません、修理をお願いしたいんですが」
「はい、どこの修理でしょうか」
「メインは後輪のパンクなんですけど、多分ほとんど全部です」
「はい?」

パンクをきっかけに改めて自転車を見直すと、もうほとんど動く粗大ごみだった。
ライトは全くつかないし、ブレーキは全然効かないしうるさいし、なんかペダルはカタカタ言うし、ベルは鳴らないし、カギは閉まりにくいし、後輪はもうツルツルだし、全体的に薄汚い。
ライトは流石に警察が怖いので外付けの安物を取り付けていたが、ブレーキは己の靴の底を犠牲にすることで対処していた。
おかげでスニーカーの底もツルツルになった。
その他の不具合は全部「気のせい」だと思ってやり過ごしていた。
「自転車ってこんなもんだよね、乗れてるし、乗れればいいし」と自己暗示をかけて日々を生き抜いてきた。
だがもう現実を見つめなければいけない時が来た。
これは動く粗大ごみだ。
おいくらくらいになるでしょうか。
「そうですね……大体ざっと見積もって1万4000円でしょうか」
絶対に買い替えた方が賢い。

けれども一度芽生えた愛着というのは厄介なもので、店員さんが見守る中ああでもないこうでもないと迷ってしまう。
一度こいつと京都まで行ったからか妙な愛着があるんですよね、と優柔不断に対する言い訳のつもりで店員さんに漏らしたら、店員さんが途端に嬉しそうになった。
「僕もホームセンターで8000円で買った自転車にまだ乗ってるんですよ」
「10年くらいかな……2台あるうちの1台なんですけどね」
「なんていうかね、乗りやすいんですよね」

先述の通り先代の自転車が呪われていたおかげで、高校生の頃は自転車屋にしょっちゅう顔を出していた。
いつどこで壊れるかは自転車の気分次第なので割と色んな自転車屋に立ち寄った。
もともと手先が不器用な僕はいわゆる手仕事というものに憧れがあったのだが、その憧れが強まったのは間違いなくこの望んでもない自転車屋通いのせいだ。
今まで僕が話をした自転車屋は、程度の差はあれ「自転車が好きなんですよ」と言葉以外の全てで伝えてきた。
自分の技術を自分の好きなものに注ぎ込む人たちをとても羨ましく思ったのを覚えている。
そしてこの店員さんも完全にそのタイプだ。
なんなら今までで一番だ。
愛着というワードを出した瞬間に明らかにテンションが変わった。

自転車屋の言うことではないですが、と前置きをした上で、
「オススメはしないですが、最悪ココとココに絞れば命と法律はギリギリで守れてこれくらいのお値段になります、残りの部分はダメになったその時にその度に直すという方法もあります」
「ぶっちゃけこの自転車もう寿命ですかね?」
「乗り物なのでパーツが劣化していくのは避けられませんが、修理や調整を重ねればまだまだ何年でも乗れますよ」
「修理が大体1万4000円ですよね、で、2万円であの自転車買えるんですよね……」
「そうですね……買い換えるという手もありますが……愛着があるとおっしゃってましたし、実際乗り心地とかの相性って自転車にもありますからね」

この店員さん、自転車を売る気がない。
なんというか、俺よりも先に店員さんが自転車を修理する気になっている。
商売としてどうなんだ。
おもしろいので修理を頼もうと思った。
「悪いところ全部お願いします」

名前と電話番号を残して店を出た。
あまりの熱意に僕は代車を借りるのをすっかり忘れていたし、店員さんもまたあまりのやる気に代車のことなんて忘れていたのだろう。
6月上旬とは思えない暑さの中を歩いて帰った。

正直な話、賢いお金の使い方ではないと思う。
どう考えても買い換えるべきだ。
けど、なんとなく嫌だ、という自分の感情と、往復300kmのちょっとした想い出と、あの店員さんの妙なやる気に1万4000円を払う、と思うと、後悔するどころか少し楽しい気分になる。
お金は欲求や損得よりも感情に素直に使うべきなのかもしれない。

「大体の見積が出ました、先ほどとそんなに変わりません」
「愛着があるとおっしゃっていたので、これから先もしっかり乗れるように修理させていただきます」
「19時以降にはお渡しできるようにしますので」
家に着くと同時くらいに電話がかかってきた。
なんかもう僕よりも店員さんのほうがあの自転車に愛着を持っているんじゃないかと思えてくる。
せっかくだから引き渡しの時にはメンテナンスの方法や長持ちさせるコツを聞こうと思う。
きっとたくさん教えてくれるだろう。
本当に動く粗大ごみになるまで乗り倒してやる。