冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

明日の面接の準備から逃げている話

症状と治療のお話。 

発作だ。いつもの発作。
忘れた頃にふと訪れるアレ。
「何かをしなければならない」という発作。
意味の強迫観念。価値のパニック障害

生きていくということは「しなければならないこと」をこなしてくということで、歳を重ねるということはその数が消化不能な程に膨れ上がるということだ。
私達は私達の望みとは全く無関係に日々どんどんと不自由になっていく。
視界を覆い尽くす景色は全て「しなければならない」という概念が形を取っただけのもので、それは無職だって例外ではない。
なんにもしたくなくて無職になってるのに、何故だかしなければならないことは増えていく。
何故だ。
確かに学生やサラリーマンに比べりゃ圧倒的に何もしていないけれど、それでも求めていた自由には程遠いぞ。
そもそも本当にしなければならないことというのはなんだろう。
生命維持に必要な食事・排泄・睡眠が真っ先に思い浮かぶ
けれども、それすらも、「生きていかなければならない」という思い込みによるものではないのか。
「生きよう」という意志がないのであれば、「しなければならないこと」なんてものはひとつもないのではないか。
いやでも幸いにも今は全く死にたくないしここは考えなくていい。
そこ考え始めると長い。長いし多分なんの準備も訓練もしていない人間が暇つぶしに遊んでも大した成果はない。
今、俺はただ、現実から目を逸らしていたずらに時間を浪費したいだけなんだ。

全く自分というものを把握するのは難しくて、当人が当人のために欲望した事柄ですら達成することが困難なのは、これはもう人間というシステムが根本的に欠陥を抱えているのではないかといつも思っている。
たとえば今この文章は、引っ越しに際して厳重に梱包されたギターのその段ボール(中身は入ったまま)を二箱積み上げたものを机代わりにした状態で打ち込まれている。
引っ越しが行われたのは約四ヶ月前で、その時からこのスタイルはずっと維持されている。
キーボードの位置もモニターの位置も低すぎて、打ち辛いことこの上ない。
だから最初は、「机が欲しい」という欲望だった。それは間違いない。
それが時の経過、不都合との直面によって、「机を買わなければいけない」に変化した。
机を買うためには、机を選ばなければいけない。
そんなに高いものを買うつもりがないとはいっても、無職にとっては大きい買い物だ。
サイズ、デザイン、機能性、値段との兼ね合い、様々な角度から自身の望みと一番合致するものを探す、という作業。
後悔しないためにはそれが必要だ。
それは完全に「しなければならない」ことだ。
「机を買わなければいけない」
「そのためには机を選ばなければいけない」
この二つで一つの「しなければいけない」に辟易した結果、未だに自室には机がない。
机に限らずいろんなものがない。
全て初めは「アレがほしい」という素朴な欲望だったはずなのに、一体なぜこうなってしまうのか。
己の怠惰が故か?
己の怠惰が故だ。
そんなことはわかりきっている。
だから意気揚々と縁もゆかりもない土地に移住した挙句にのうのうと無職を満喫しているんだ。
そして「しなければいけないこと」から全力で遠ざかり、いよいよ怠惰が極まろうとしたときに襲い来るもの。
それが冒頭の発作だ。

少なくとも一般的な社会生活と比して「何もしなくていい」生活を長く続けていると、発作が起こる。
この発作自体は誰にでも覚えがあるものだろうと信じている。
よくある例を挙げるならば、「テスト前に何故か部屋の掃除をしてしまう」というアレだ。
だから、話自体はシンプルだ。
誰にでも思い当たる節があるであろうあの発作の、究極に純度の高い衝動が、ニートの暮らしには突如出現する。
そもそも、ありとあらゆる「しなければならないこと」を力の限り遠ざけることこそがニートの醍醐味と言っても過言ではない。
そしてここからはよく勘違いされるところなのだが、ならばニートは毎日好きなことをしているか、と問われると、実はそうではない。
ニートは「したいこと」に取り組む気力もない。
つまり怠惰。圧倒的な怠惰。
要するに意志の力が徹底的に衰えている状態がニートなのだ。
意志の力が衰えているからニートなのか、ニートをしているうちに意志の力が衰えるのか、個人的には後者ではないかと思うけれど、ここは重要なところではない。
なにせ、なにもできない。
一部の特殊な才能を先天的に持つ者は、この状態こそが極楽、と怠惰の道を徹底的に突き詰めるが、全てのニートがそうであるというわけではない。
社会不適合者の全てが犯罪者ではないように、ニートの全てが怠惰の求道者ではないのだ。
故に、発作が起きる。
なんでもいいから、何かをしなければいけない。
その考えに取り憑かれる。
けれども、意志の力が衰えている。
しなければならないことを前にすると萎縮して何もできなくなる。
したいことをしようにも、怠惰の微睡みの中で自分の欲望すら曖昧になっている。
パニックになる。強迫観念に苛まれる。
何かを。とにかく、何かを。
そうして出来上がったのがこの文章だ。
何の解決にもならないが、発作はとりあえず収まる。
大事なのはそこだ。
既に症状が現れている時に根本的な治療をする余裕はないのだ。

では、根本的な治療とはなんだろう。
それは「何かをすること」だ。
なんでもいいから毎日何かひとつ「しなければならないこと」「したいこと」を自分の意志の下でひとつでも行うこと。
これが意外に効く。
この発作に関しては、対症療法と原因療法が全く同じものなのだ、と気付くのにとても長い時間を要した。
ニートが社会生活を送るに連れて快活になる例があるのは、意志の力がトレーニングによって回復していくからではないだろうか、と思っている。
ここまで読まれた方の中には、そんな当然のことを何を長々と文章にしているのだ、と思う方もいるかもしれない。
そんな当然のことだから長々と文章にできるのだ。
発作の辛さをとりあえずマシにするためにいちいちクリエイティブな文章なんか書いてられるか。

思うことはいくつかある。
ニートのこの発作が常態化している人のことを、我が国ではいわゆる「社会人」「真人間」と呼ぶのではないだろうか、と。
結局のところみんな、「とりあえず何かを。何かをしなければ。」という強迫観念に取り憑かれていて、それに上手な言い訳や見栄えのいい理由をコーディネートできる人が社会適合者と呼ばれているのではないだろうか、と。
だって、無職でさえこんなに忙しいんですよ。
本当に難しいことは「何かをすること」じゃなくて、「何もしないこと」なんじゃないだろうか。
怠惰ですら「何もしない」ではないのだ。
本当の無駄、無意味、無価値なんてものは無いんじゃないかと思う。
だとしたら、対になるものの存在も怪しいんじゃないか、とか。
そういうことを考えているとまたあっという間に時間が過ぎて、とりあえずの発作は回避できて、めでたし、めでたし。