冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

天国は来年の夏まで続く

 

ワンプッシュで室内の虫を皆殺しにするスプレー(しかも半日も効果が続く)を去年から愛用している。

使い始めてからこちら死んだ虫か死にかけの虫しか見ていない。
そのことに気付いた時はあまりの効果の強さに感心するより恐怖を覚えた程だ。
気まぐれに中空に噴射しただけでこの有様なのだ。
これを直接浴びてしまった虫はどうなるのだろうか。
そんな好奇心を抱いたのも我ながら無理からぬことだったと今でも思う。
子供のようにわくわくしながらわざと窓を開け放ち、まんまと迷い込んだ哀れな蚊にいつものようなワンプッシュ。



地獄のようにもがき苦しんだ後に死に至った。
国際社会が人道的な見地から化学兵器の使用を禁じている理由が心の底からよくわかった。



梅雨の夕暮れ、雨音も一休み。
心地よい静けさに包まれた部屋。
そこに断末魔のように断続的に鳴り響く、あの、耳障りな羽音。

虫にも痛覚や意識があるのだろうか。
昔、そんな疑問を抱いたことがあった。
今、その疑問ごと殺すような地獄が蚊を襲っている。
とてもとても弱々しい大音量でその羽音は苦しみを訴えていた。

音は、弱々しくなるばかりではなかった。
一度途切れたかと思うと急に大きく響くのだ。
そしてまた弱くなって、途切れて。また大きくなって。
休符を挟んだデクレッシェンドとフォルテを何度も何度も何度も何度も。
何度も繰り返してから蚊は死んだ。

わたしは、それを、ずっと聴いていた。
床を這いずり回る羽をずっと、ずっと見ていた。

命は平等と建前を言ったところでちっぽけな蚊の一匹、大したことはない。
だって不愉快な害虫じゃないか。
わたしはずっとそう思っていた。
なのにわたしは思ってしまった。

これからは功徳を積まなければいけない。

わたしはそれだけのことをしてしまった。

なんて、惨たらしい。

こんなにも凄惨で、しかも逃れようのない死が、たった一度の指先で12時間も続くのか。

こんなちっぽけな容器に、そんな地獄の半日が300回近く詰まっているのか。

わたしの手は震えていた。

わたしの耳は静寂を取り戻していた。

わたしの目は震える手の中の小さな青い容器に釘付けになっていた。

わたしの口は意思を飛び越えて言葉を吐き出した。

その声はとても小さかったが、静寂の中に確かに響いた。



「なんて恐ろしく、そして、お買い得なんだ」

功徳という言葉は既に頭から消えていた。



夏。
それはわたしにとって歓迎すべき季節であると共にひとつの試練でもあった。
どこから入って来やがるのか毎夜の如くわたしの眠りを妨げる、あの、不愉快な、耳元での、羽音。
夏を楽しみにすると同時に憂いていた理由。
これさえなければわたしにとって夏は天国となるのにと毎年考えていた。
そのことを今の今まで忘れていた。

忘れていた。
忘れていたのは何故だ。
なかったからだ。
何が。
羽音が。
あの不愉快な耳元での羽音が去年の夏は全く、全くなかった。
何故だ。

何故。
そんなことはわかりきっている。
その小さい、青い容器に詰まったお手軽な地獄だ。
それがわたしの夏を天国にしたのだ。

地獄を部屋に撒き散らして、わたしは天国を手に入れたのだ。

なんて愚かな。そう思った。
先人の戒めを思い出す。
わたしはまさに目に見える形にばかり囚われていた。
虫の死体を見つけては「めっちゃ効くな」と言ってはしゃいでいた己を恥じるばかりだ。
目を閉じて耳を澄ませば自ずからわかるではないか。
夜、めっちゃよく寝てたじゃないか。

この商品は信頼に値する。
わたしは自ずからそれを悟った。
これもなにかの思し召しであろう。
去年の分はそろそろ使い切りそうだし、今年はワンサイズ大きいものを購入しよう。

多分それで来年の夏までいける。

980円で天国は来年の夏まで続く。