冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

秋が来る

 

昨日今日と散々な状態に陥っていたが、頭の方は割と明晰だったので積極的に生き延びる理由を明瞭にすることに成功した。

頭脳さえ明晰であれば精神が最悪でもまだなんとかなる。

身体の方はこれから少しずつ整える。

生き延びるのだ。

生き延びて生命をやっていくのだ。

少なくとも今はその理由がある。

 

積極的に他者に向けて何かを働きかけるということを意識的にすることがとても不得意な気がしている。

けれど、友人知人からはむしろサービス精神の旺盛さを褒められることもあって、彼我の認識の溝に戸惑う。

十年近くも自分のことだけについて延々と文章を書き連ねている人間が営業や接客に向いているとは全く思えない。

ただ、周囲の人々が断続的にずっと似た傾向の職や生き方を勧めてくれるということはやっぱりなんらかの理由があるのだろうとも思う。

なんにせよとりあえず生き延びるためには行動を起こす必要があるし、生存を超えて生命をやっていくためにはより行動する必要がある。

ぶっ倒れては死にたがって薬と酒で誤魔化してるけど、そんな日々の中でも自身の基礎を自殺から遠ざけるための地道な積み重ねはできていると思う。

褒めてほしい。素直に、単純に。

 

褒めてほしい、というか、自分を褒めることができた出来事がひとつあった。

いつの間にか奇縁となってしまった友人の慶事をようやく心から祝福することができた。

やはり時間の経過というものは大きいということを再確認した出来事であり、生き延びることの重要性を強く再認識した出来事でもあった。

何よりも、祝福を素直に喜んで貰えたことがとても嬉しかった。

俺は相変わらず自分のことばかり考えていたから自分自身の一区切りのことばかり思って肩の荷を降ろせた気分になっていたけど、一区切り付いたのは向こうも同じだということに友人と対面して初めて気付いた。

当然、若干の自己嫌悪に陥ったけれど、暫く振りの友人との時間の共有を台無しにせずに済んだのは図らずも友人との間に大きく横たわっていた時間的空白のおかげだった。

有り難いことに彼も、そして当然のように俺も、つまり互いに、その空白を埋めるために全力を注ぐことにばかり気を取られて、気が付けば単純に心から楽しい一夜を過ごしただけで終わった。

それは全く理想的な一区切りだった。

 

双極性障害という診断が確定してから、ますます自殺について考えている。

というのも、この病気の5人に1人は自殺で死ぬというデータがあるらしい。

ちゃんと書籍や論文を読むことはまだ出来ていないけど、自殺率が高いことは間違いのない事実みたいだ。

もともと俺は希死念慮というか自殺に憧れるゴミみたいな精神性を高校の頃くらいから持っていて、十九のときに初めて明確に精神がぶっ壊れて以来はますます自殺のことばかり考えるようになった。

以来、断続的に自殺から緩やかな誘惑を受け続けている。

適切な治療を受けるようになってもその誘惑はまだ残っていて、これは恐らく一生付き合うことになるのだろうなと思う。

けれど俺は今までODも自傷行為もしたことがない。

怖いからだ。

痛いのは嫌だ。

苦しいのも嫌だ。

幸せになりたい。

そんな人間に果たして自殺が出来るのだろうかということを最近はよく考える。

それとももしかしたら、禁煙をしたときのように突然断固として死んでしまうのだろうか。

こういう風に自然に自分が自殺をする前提で物事を考える癖がついているので、冒頭に書いたように生き延びる理由を確認することが大切になってくる。

それはどんどんと明瞭にしていくべきだし、あまり限定的にするべきではないと思う。

何かを成功させるため、というのを生存の第一目的にしてしまうと恐らく死に至る可能性は大きくなってしまう。

生き延びる理由は「ご飯を食べて美味しいと感じたら一週間頑張る」とかそれくらいの方が自分には向いている。

その上で、生きているからにはあれをやろう、という風に生命をやっていくのだ。

 

生命をやっていくのだ。

生きているからにはあれをやろうなんていう、今更な綺麗事でも改めて掲げなければ俺は人の心ひとつも慮れない。

月並みだけれど、俺を死なせたくない、俺に死んでほしくないと思ってくれている人たちに報いたいと思う。

思えているのだ、今は。

そう思えているうちにそうせざるを得ない環境を構築して、更に生存と生命の可能性を上げていく。

俺だってみんなには死んでほしくないし、死なせたくないと思う。

それは俺の勝手な気持ちだから強制力なんて全くないし、背信行為だとも思えないだろうけれど、やっぱりただ単純に寂しいだろうなと思う。

 

寂しいのはよくない。

ただでさえこれから秋が来る。

 

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