冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

楽しいことは適宜起こっている

 

Twitterはゴミ捨て場みたいなものだと思っている。
自分の使い方の話だ。
だから、誰かのTwitterを見るときなんかは、たとえばたまに泣きそうになる。
世界は美しいです、と断言してもらえた日には、おそらくずっとその言葉を咀嚼し続けるんだろうと思った。
顔も知らない友人の友人からもらった言葉を指針として生きていくことだってできるわけだ。

お前がTwitterをゴミ捨て場として使っているのはわかった。
ならばblogはなんだ。
と、問われると、こちらはもう少しマシなものにしようと足掻いている最中だ。
だから今はこうして文字を叩きつけている。
伝わればいい。伝わらなくても続ける。

事実を羅列したくはない。
それは感想文未満になってしまうから。
とはいえ、一昨日の夜。
大きい音、小さい音、数年振りの友人たち、ほぼ初対面の女の子との長話、全く初めてなのに話が合った人、いくつものうた、あらゆる音。だった。
だったのだ。
酷い抑鬱が霧消した。
音楽にはもしかしたら力があるかもしれない。
あるいはそれは人との出会いにも。
楽しい一夜だった。

そう、楽しいことは適宜起こっている。
それぞれの印象深さは別として、適宜。
楽しいことは適宜起こっている。
それを強く自分に紐付けていこうと思う。

さっき買い物ついでに散歩をした。
数ヶ月前なら煙草でごまかしていたくらいの空腹を満たす少しの(本当に少しの)なにかを買うための・そのついでの散歩。
近所には見事な金木犀が煌々と輝いている。
おかげで少し散歩をするともう想い出だ。
歩いていく。
それは追い越したりすれ違ったりする。
追い越した側の話は、老人と僕の歩幅の違いに現れる。
当然のように違う歩幅はあっさりと僕と老人の位置を逆転させる。
どちらも進んでいるのに。
わかりますか?ぼくはこんなことに泣きそうになりました。
社会生活が営めるのか?営むしかないんだ。
幸いにも僕には素晴らしい(本当に素晴らしい)友人が居て、障害者手帳を取得したならば、という前提で、その雇用の成功モデルと言われている会社を教えてくれた。
福音のひとつの形式だ。
それは雇用そのものではなく、それを伝えてくれた友人を持てたことに対して。

かつて地元の堀の周辺がぼくの散歩道だった。
真夜中にうろついているとすぐに職質をされて、無限に満たされることのない孤独に苛まれていたぼくはここぞとばかりに警官と話し込んだ。
そんな真夜中、それでもすれ違うひとはいた。
ぼくはすべてのすれ違いに包丁を見ていた。
刺されるかもしれない。
切られるかもしれない。
それでいいのかもしれない。
痛いのは辛いかもしれない。
どうすればいいかわからない。
どうすればいいかわからない。

無事にすれ違うことができるたびに、ぼくはぼくのなかの何かが満たされる感覚と、永遠に毀損された感覚の、両方に苛まれていた。

こちらからそちらへの距離。
それは計測できるものとして在るだろうか。
在ったなら、それもひとつの福音の形式だろう。

そういえば近頃はアメリカンドッグにハマっていて、散歩をしたのもそれを買うためだ。
甘い。
散歩の道すがら書こうと思っていたことは次々に消えていって、その成れの果てがここに結実している。
伝わればいい。伝わらなくても続ける。