冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

生きるに値するか

 

「青い鳥」という映画がある。名作だ。

いじめによる自殺未遂で転校した生徒は、形式的な反省だけで忘れ去られようとする。
「忘れるなんて、卑怯だ」の言葉とともに、その生徒の不在にも関わらず毎朝挨拶をする教師がやってくる。
彼はそれ以外に特別なにか大きいことをするわけではない。
ただ、関わる全てのひとに本気で向き合い、会ったこともない生徒を忘れない/忘れさせないために挨拶を重ねる。
そういう話だ。名作だ。
ぼくは地元でニートをやっていたころにこの映画を見た。

情報量の問題なのか、最近は外を歩いているだけで泣きそうになることが多い。
病気の自覚の問題なのか、飲んでる薬の問題なのか、ぶっ倒れてからそういうことが増えた。
この世の中は美しいものであふれていて、人間ばかりが醜く見える。
けれど、あふれている美しさの、その多くの部分を人間がつくった。
希望にも絶望にも辿り着けずに虚無に身を浸している。
世界は美しいです。生きるに値するかは別として。
今日もただ泣きそうになるばかりの一日でした。楽しい日々です。

河井寛次郎展に行った。
陶芸/陶器のことなんか欠片も知らないので、解説のほとんどを理解することができなかった。
とは言え美しいものは美しい。
存分に堪能することができた。
あふれている美しさの、その多くの部分を人間がつくった。

生前葬を考えている。
賑やかで明るく楽しいものではない。
ひとりきりで簡素に形式的に執り行うものだ。
生前葬という言葉に出会ってから漠然と抱いていた憧れとイメージが、幸運にも他者の手により具体化した。
僕は早く余生を生きたい。
可能な限り人生を軽々しく扱いたい。
他者と比較したとき、自分はかなり人生を楽しんでいる方だと思う。
その自覚はおそらく他者が僕に抱く印象との間に大きな齟齬が生じないもののはずだ。
しかし、人生の充実と当人の欲望には相関がないのだ。
僕はこの幸福な人生を平穏に継続させることを望んでいる。それは間違いがない。
では、何故。と問われるだろう。軽々しく扱いたがるのは何故だ。
簡単に説明ができる。
自分が生きていることそのものに不自然さを感じているのだ。
もうずっとその感覚は傍らに居座っている。
整合性を取りたい。
生前葬をやりたい。
生命を継続させるために意識を断絶させたい。
美しいものに醜いものとして接さずに済むように。

この世の中は美しいものであふれていて、人間ばかりが醜く見える。
けれど、あふれている美しさの、その多くの部分を人間がつくった。
世界は美しい。忘れるなんて、卑怯だ。

 

広告を非表示にする