冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

偽りの記憶と打ち消すための瞬間

写真を撮るようになった。
Instagramというものを始めて(特に理由はない)、始めたからには何かしらの写真があったほうがよかろう、という理由と、Photoshop(もっぱらiPhoneのアプリ)で写真を雑に加工するのが楽しくなった、という理由がある。
それらより大きい理由として、昔の写真を見返す、という行為に思ったより感じるものがあったことが挙げられる。
おそらく歳を取ったのだろう。
2017年、今年で27歳。
こんなはずじゃなかったと言っても仕方がないので生きていこう。

写真や文章が呼び覚ます記憶というのは案外馬鹿にできないもので、普段の自分は軽度の記憶障害かと言うくらいに昔のことや想い出が曖昧にしか出てこないため、たまに何かに媒介されて記憶が蘇ったときはいちいち鮮烈な刺激に晒されることになる。
正確に言うと出来事の輪郭なら多少は思い出すことができるのだが、写真や文章に触れると、「出来事のディテール」とそれに伴った濁流のような「実感」が襲ってくる。
ああ、俺はかつて確かにそこに在った、と。
そんなことを馬鹿みたいに毎回繰り返している。

文章は自身の内面に深く深く潜り込んでいくことなので、それに触れて蘇る手触りは内臓の粘膜を思い起こさせるものだが、写真は誰かとの関係を鮮やかに切り取るものが多いので、揺れ動かされた感情は大抵パステルに明るく観測される。
わざわざややこしい言い回しをした。
文章はどちらかというと辛いときに書くことが多かったので、このときしんどかったんだなーと思うし、写真は楽しかったときに撮ることが多いので、よい人生を歩ませてもらったなあと思う。

写真を撮るようになったのはここ半年の話で、それは多分「思っていたよりも楽しい日々」を可能な限り記録しておきたいという欲望だろう。
なんだかんだ言っても振り返ってみると起伏の大きかった、いわゆる一般的ではない人生を歩んできた割には楽しかったな、と思う。
写真の一枚一枚がそれを補強してくれている。
文章なんていくらでも書くから心配する必要はないけど、写真は撮る習慣が全くなかった(むしろ積極的に避けていた)ので、これからは、と。

2017年1月現在、26年と半年ほど生きてきた中で2位に大差をつけて堂々の1番で苦しい状況だ。
ちょっと冗談抜きで笑えない状況で、どれくらいかと言うと福祉の最後の砦が視野に入りつつある。
そんな絶対的貧困のなかをそれでも笑えていられるのはこれは間違いなく親しい人々のおかげで、この年末年始はそのどうしようもないありがたさをますます強めるものになった。
もう迷惑をかけてしまっている各位と、これから迷惑をかけてしまうかもしれない人々が、嘘でも「そんなことはどうでもいい」と言ってくれている。
おかげさまでギリギリ状態は最悪にならずに済んでいる。
状況はどこまで駄目になってもいいから、状態だけは一定の水準を保たなければいけない。
生き延びること、存命することが現在の自分が持っているただ一つの約束で、それだけは死守する。
死んでしまったら関係がない?死んでしまっても関係がある。理屈はない。けれどある。

先述の通り、文章にはこういう、自分がどういう状態だったかを記録する役割を与えている。
けれどこれだけでは「この最悪の状況を自分は意志の力で乗り切った」という嘘の記憶が定着してしまう可能性がある。
確かに状況は最悪で、友人たちのおかげで生き延びていることも間違いないけれど、その友人たちのおかげでこんなに楽しく日々を過ごして、結局笑顔が絶えることはなかった、ということ。
それも含めて嘘偽りなく残しておかなければ、不義理どころの話ではない。
俺は日々を喘いでいたわけではない。
糊口を凌ぐことで精一杯だったかもしれないけれど、幸福を手にすることも間違いなくできていた。
それらは全て友人たちのおかげだった。
嘘偽りなく未来に絶叫するために瞬間を出来る限り切り取っていく。

つまりはそれが一番の理由だ。