ようやく甥と姪の顔を見ることができた。
正確に言うと従甥、従姪というらしいが、そんな面倒くさい言い方はしなくていいだろう。
僕には三人の従兄弟が居て、上から姉、兄、兄。兄二人は兄弟だ。
一番上の姉とは一回り、一番下の兄とも確か7つか8つは離れていて、だから小さい頃から随分とかわいがってもらっていた。
そしてある時から兄二人とは疎遠になってしまった。それが冒頭の一文につながる。
疎遠になった原因は僕が叔母を憎むようになった原因でもあり、それは伯母と叔母の対立が決定的になった原因でもあった。
詳細はどうでもよくて、ただそういう事実があって、それぞれに言い分があって立場があった。
つまりそういうことだ。
叔母の息子たちである兄二人とは、僕が叔母を憎むようになって、だから避けるようになったことで疎遠になった。
それからもう随分の時間が経った。
偶然、久し振りに叔母と顔を合わせた。
なんとなくゆるしてしまった。
こういうことがやっぱりあるんだなと思った。
つい先日にも似たような出来事があって、これも(より積極的な理由で)仔細は語らないが、その再会は三年振りだった。
再会それ自体は「なんとなく」の産物ではなかったけど、そのきっかけになった自分の心変わりは全く「なんとなく」だった。
なんとなく、いつのまにか、心の区切りがついていた。
精神的に決着を付けたいと強く思っていることがひとつあるんだけど、決着を付けたいという意志を持つうちは決着が付かないということがわかり始めた
— 牧山██ (@kaicho121) 2014年7月29日
意志が達成を阻害する構造になっている
— 牧山██ (@kaicho121) 2014年7月29日
時間が解決してくれるというのは、意志や行動それ自体が完結を阻害する物語に残された唯一の救済措置で、断絶を横たわらせて未完の形で納得させるという意味なのだろう
— 牧山██ (@kaicho121) 2014年7月29日
我ながら慧眼だと思う。
要はこういう感じで無自覚に精一杯時間の力を借りることで、なんとなく心変わりができたし、なんとなくゆるしゆるされることができたのだろう。
僕はこれをたいへんによかったと思う。
そういうわけで、叔母から兄二人それぞれの子供を見せてもらった。
どちらもとてもかわいい。
姉のところの子供も合わせて、僕には甥が二人と姪が二人いる。
早くお年玉をあげられるようになりたい。
ひとはなんとなくひとをゆるせるということ。
なんとなく全部ひらがなで書きたくなる一文ですね。(了)