冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

骨と暇

 

特に何か用事があるわけではないけれどなんとなく外に出ようと思った。シャワーを浴びてそれなりに身支度をしたけれど結局なんとなくやめた。例えば整髪剤を使った髪型とか既に汗を吸い込んだ柄シャツとか財布や扇子を放り込んだボディバッグだったり肌に残る制汗スプレーの細かいパウダーもそうだ。一度芽生えた意志の残滓はそういうかたちで五感のどこかに名残をとどめるし、当然脳の隙間にも少しだけ塵が零れる。生まれては死んだ意志の数々。行かなかった旅先、伝えなかった恋心、食べなかったメニュー、残さなかったメロディー、読まなかった本、エトセトラ、思いつく限り、忘れてしまったもの、かたちを伴ったもの、伴わなかったもの。ほとんどが弔われることなく塵となって積もっていく。それは人格の形成や人生の風景に影響を与えるだろうか?目の前に渾然と積み上がった無数の意志の白骨死体。白骨死体。意志の骨というのはどこにあるのだろう。だとすれば何が肉に当たる?巡る血は?

結局、暇なのだ。だからどこからでも死を見出そうとする。今の俺はまるで死に取り憑かれているようで如何にも病的だ。病人として静養していることを考えるとある意味全く正しい姿だろうか。と、そうして自嘲をしているうちに今日も日が暮れた。少しだけ過ごしやすくなった部屋の中で雨の予感を感じながら文字を打つ。まだまだこの小さな画面で文字を連ねることに慣れない。予報通りなら日が変わる頃に雨が降る。それまでにやっぱり散歩でもしてこようか、どうしようか。

集団の死は統計上の数字に過ぎないと言ったのは誰だったか。意志が死ぬことについても同じように言えるだろう。人間は日々意志の大量虐殺を平然と行っている。そういう風に生まれついている。ひとつひとつを哀しみ弔うには死ぬ数が多過ぎる。もちろんそれは生まれる数の多さも意味している。人間は己の内奥で神のように振る舞い、次々と新しい意志を生み出す。だとすればやはりそのひとつひとつを喜び寿ぐことも出来ないだろう。生まれた数と死んだ数。どちらが多いのか、多かったのか、多くなっていくのか。イザナミイザナギ。神話には詳しくない。名前だけが浮かんだ。

己の脳の隙間、あるいは精神の谷底で無数の骨が積み上がっているとして、それが人格の形成や人生の風景に与えた影響は全て過去のものだ。骨が骨に触れたその時、暗い影に音が響いた。我々は無意識のうちにそれに耳を傾けた。その音の澄み切った色彩や鈍く残る不愉快は既に鳴り終えている。雷光と雷鳴。詭弁?結構。

結局のところ世界というのはどんなかたちをとっているにしろ生きている者たちのものだ。死はある。それが与える影響も否定しない。けれども受け取るのは生きている者だ。開き直ることについてすら開き直れるのは生きているからだ。死者は沈黙する。ゆえに神格と化す。ファック・オフだ。過去はさぞかし美しいことだろう。果たせなかった夢、伝えられなかった想い、全ては適宜最適な彩色で美化される。何故ならそれらは全て死んでいるし、死化粧を施すのは生者だからだ。死者はそれに抵抗できない。そう考えて憧憬する自分が居る。これ以上の抵抗は無意味か?

どうしようもなく暇なのだ。そういう風に生まれついてしまった。かれこれ十年は同じことばかり考えては言葉にしている。結局未だに一歩足りとも進めていないように感じるけれど、だから今でも過去にならずに眼前に在るのだろう。この遊び相手は当分美しくなってくれそうにない。だけどそういうものがひとつくらい側になければ張り合いがない。それこそ自分を過去にしたくなる程度には。とはいえそろそろ新しい暇潰しの相手も欲しい。やっぱり散歩に出かけようか。雨まではまだもう少し時間がある。

何しろ暇なのだ。どうしようもない。