冥王星を取り戻せ

見える限りの遠くの向こう

僕はリボンキャミソールを知らなかった

 

女の子の買い物に付き合うのが好きだ。
服でもアクセサリーでも化粧品でもなんだっていいけど普段見れないものが見れて楽しい。ふわふわしてるものとかきらきらしてるものとかがやたらめったら視界に入ってくるあの感じが結構好きで、恋人とか女友達が「ちょっと寄っていい?」って聞いてくれるのを待ってるところすらある。フェミニズムがなんたらジェンダーがどうたらの難しい話は避けたいけれど、やっぱりああいうふわふわきらきらなものや場所は女性に向けたものが多いし、男は一人だろうが複数だろうがなかなかそういうものにお目にかかれない。自分自身かわいいものが好きだということもあるにせよそれを抜きにしたってあの非日常感は素敵なものだと思う。そういうこともあって女の子と出かけるのは楽しい。やっぱり同性とのそれとは質が全く違う。だから何が言いたいかってゴールは全くないのでこの話題は打ち切ろう。
と思ったけど続けよう。思い出したことがある。リボンキャミソールの存在をこの春に知って感心したこと。服屋のハンガーにぶら下がってるあの中途半端なサイズのぺらぺらが何なのか初めは全くわからなくて凝視してもやっぱりわからなくて同行者に質問しても全然わからなくてスマホで画像を見せてもらってようやく得心がいってそうすると不思議なことに街中でリボンキャミソールを着ている女性がやたらと目につく。肩こりという言葉を教えてもらったばっかりにそれに苛まれるようになってしまった外国人の話をなにかで読んだことがある。それと同じ類の現象なんだろう。語彙は景色を変える。花の名前をひとつ覚えるたびに街を歩く一歩が美しくなるし、罵詈雑言をインストールすれば暴力が少し手に入る。世界は言葉でできている。ひとりぼっちになるということはだから多分誰からも名前を呼ばれなくなることなんだろうと思う。寂しさというのは名前を呼ばれなくなることで、切なさというのは名前を呼べなくなることだ。あらゆる喪われたものには名前があって、名前がないものを僕たちは喪うことができない。と、まで言うと大袈裟だろうか?とにかく僕はあなたの名前を呼ぶことのできる幸運を喜ぼう。気が向いたら僕の名前も呼んでくれ。恋というものは結局それに尽きる。二十七歳かく語りき。おっさんだってロマンチシズム。
あんまり自分のことをおっさんだなんだと自虐するのはそれこそ言葉の力に侵されてしまう気がするので匙加減が難しいところだ。ある程度は年齢を弁えたいと思う反面、あからさまに抵抗をやめるのもつまらないと感じる。そもそもこういう葛藤が内に生まれていることそのものが月日の経ったのを思わせる要因になっている。もう、ほんとに、百代の過客~。ちょっと過客~。って感じ。どうせ永遠には勝てないしそもそも勝ちたいとも思わないしまあこんな感じでよいのだろう。考えるのが面倒くさくなってしまった。そんな風に思ってしまう人間にはやっぱり永遠は必要ないだろう。不老も不死も持て余す気がしてならない。必要なひとに必要なものを。僕の分の永遠はどこかの誰かがもらってくれればいい。
僕の知らないふわふわしたものやきらきらした場所はまだまだたくさんあって、そこには当然リボンキャミソールみたいになかなか飲み込めないわからなさもあふれてるんだろうけど、そういう好奇心のために永遠を欲しがらない程度には僕も大人になれました。だから何が言いたいかってゴールは今度こそ見当たらなくなったのでこの文章は打ち切ろう。