あるものこばみ

見える限りの遠くの向こう

黒猫の名前


猫。猫の話をしましょう。好きな人も多いし。

その地域の主みたいになってる猫。野良猫同士の生存競争的な意味ではなく、人間に対しての。つまりそこに行けばだいたい会えるし撫でても泰然として貫禄のある類いの猫。みなさんも一つくらいは思い出す顔があるんじゃないかと思う。俺は二つある。黒猫とペルシャ猫。今日は黒猫のお話。

その黒猫と出会ったのは21歳のとき。そのときの俺は宅浪という名目でニートとして過ごしていて、その日も受験勉強という大義名分で図書館に行って小説を読み漁っていた。物語が一区切りついたところで俺は煙草を吸いに外に出た。そのときの俺はまだ喫煙者だったし図書館にもまだ喫煙所があった。ゴールデンバットをゆっくりと吸ったあと、座りっぱなしで固まった身体を少しほぐすかと歩き出した俺の目の前、自転車置き場のど真ん中。野良にしては肉付きのいい黒猫が居た。香箱座りをして目を細めて気持ちよさそうな顔。春だしな、たたずむだけで心地良いよな。ところであなた、近づいても全然動じませんね。

この黒猫のことを俺は「図書館のヌシ」と呼んでいた。
他の人がどう呼んでいたのか、今ではもう知ることができない。

黒猫は図書館の敷地内のどこかに必ず居た。人目に付かない物陰のこともあれば入り口の真正面のこともあった。そしてどこに居ても泰然としていた。そういう理由で自然と俺はその黒猫をヌシと呼びはじめた。ヌシのことは誰もが慕っていた。みんなヌシの姿が目に入ると「お、居るね」といった様子で声をかけたり、撫でたり、笑顔になったりしていた。ヌシは人間がどんな行動をしようと香箱座りで目を細めるばかりだった。よちよち歩きの幼児が喜びのままに撫で回してもヌシは全く動じずにあくびをしていた。親御さん流石に止めたげてよと思ったが、まあヌシが平気そうならいいか、と俺は煙草を吸っていた。図書館の職員さんがヌシに挨拶をしていた。俺はそれを見て、ここはちゃんとヌシの居場所なんだな、と勝手に安心しながら煙草を吸っていた。時には順番待ちができていることもあった。上品なご婦人がなにかを話しかけながらヌシを撫でている後ろで、ベンチに座っているカップルがそわそわとそれを見ていた。俺は煙草を吸いながら、今日はヌシを撫でれそうにないな、と思っていた。ヌシはずっとそこに居た。俺は煙草を吸いに外に出るたびにヌシを探した。俺の図書館通いの日々はヌシとの日々だった。しかしヌシは突然居なくなった。俺は煙草を吸いに外に出るたびにヌシを探した。ヌシを見かけることは一度もないまま次の春が来た。受け入れるしかなかった。

あとから知ったのだが野良猫の寿命というのはとても短いらしい。そのときの俺は今よりもさらに無知だったし世間知らずだった。ヌシとは長い付き合いになるんだろうと思っていた。仮にも受験生だった俺は大学に合格したら故郷を離れるつもりだったから、たまに帰省したときは図書館に寄ってヌシに挨拶をしよう、なんて思いながら煙草を吸っていた。野良猫の寿命がそんなに短いなんて知らなかった。俺はなぜか事故ではないという確信を抱いていた。誰かに拾われたわけでもない、寿命だったという強い確信。根拠はない。とにかく、野良猫の寿命がそんなに短いなんてそのときの俺は全く知らなかった。

図書館に毎日のように通っていながら利用者はもちろん職員さんともまともに話したことのなかった俺は、当然ヌシについての話を誰かとすることもなかった。みんながそう呼ぶひとつの名前があったのかもしれない。ヌシがいつから主なのか知っている人も居ただろう。人々がヌシを悼む言葉を交わし合う様を想像する。寂しさを分かち合う相手が居なかった俺はあのときからずっと寂しいままで、今でもたまにこうやってヌシのことを思い出す。香箱座りで目を細めて気持ちよさそうな黒猫。

ヌシとの出会いがきっかけで俺は猫が好きになった。だから猫の話をしましょう。
みなさんも一つくらいは思い出す顔があるでしょう?